「これは日本人だけが作れる映画だ。日本人だけが作る権利を持ち、より以上に作る義務を持っている」と、60年前の小欄が書いている。新藤兼人監督の「原爆の子」を見て、当時の筆者は「すぐにはペンを執れぬほどの強い感動を受けた」と記した
“这是一部只有日本人能够拍摄的电影,只有日本人拥有拍摄的权利,并肩负着拍摄得更为精良的义务”,这是60年前刊登在敝栏目里的一段文字。观看了新藤兼人导演的这部“核爆之子”后,当时的执笔者写道,“深受感动,几近乎难以立刻执笔。”
▼占領下の日本で、原爆をめぐる記述や映像は厳しく検閲された。封じられ、忘れられたようだった原爆の悲惨を、この映画は真っ向から描いて突きつけた。「作りたい映画をつくる」を貫いてきた新藤さんの代表作である
▼在被占领的日本,有关原子弹的描述和影像都受到严格的审查。似乎已被封存、被遗忘的有关原子弹的悲惨记忆借由这部电影被迎面摆放在眼前。新藤一生坚持“拍想拍的电影”,这是他的代表作。
▼その訃報(ふほう)を聞いて、硬骨にして濃密な人生の軌跡を思う。反戦平和への信念は、兵役の体験が根底にある。「ゴミみたいな中年兵の一人」だった。殴られ、しごかれ、「もう敵がアメリカなのか帝国海軍なのかわからなかった」。召集仲間100人のうち、実に94人が戦死していった
▼听到讣告后,便想到了先生铮铮铁骨经历丰富的人生轨迹。服兵役的经历从根本上造就了他反对战争热爱和平的信念。他曾评价自己是“一名垃圾般的中年兵”,频遭殴打几经凌辱,“已经分不清敌人究竟是美国还是帝国海军”。召集来的这些伙伴,100人中竟有94人战死疆场。
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