きょうは日本の民俗学の父とされる柳田国男の命日。名高い「遠野物語」に、津波で死んだ妻の霊に、夫が夜の三陸の渚(なぎさ)で出会う話がある。名を呼ぶと振り返って、にこと笑った。だが妻は2人連れで、やはり津波で死んだ人と今は夫婦でいると言う。
今天是日本民俗学之父的柳田国男先生的忌日。著名的《原野物语》说的是丈夫晚上在三陆的海岸遇见了死于海啸的妻子的灵魂。丈夫呼唤着妻子的名字,妻子回过头来微微一笑。但妻子带着别人而来,,果然已与死于海啸的人结成了夫妻。
「子どもは可愛くはないのか」と問うと、妻は少し顔色を変えて泣いた。そして足早に立ち去り見えなくなってしまう。珠玉の短章だが、怪異な伝承に投影された、生身の人間の切なさを思えば胸がつまる。
“孩子不可爱吗?”,妻子颜色一变哭了起来。随后脚步匆匆地离去并消失不见了。虽然是杰出的短篇小说,但一想到把人类切身的痛苦映射到这种怪异的传说上,心中就一阵难受。
柳田は三陸海岸をよく歩きもした。ある集落では、明治の津波に襲われた夜、助かった人は薪を盛大に焚(た)いたそうだ。闇に燃える火を目印に、呑(の)まれた海から泳ぎ着いた者が何人もいたなどと、見聞きした話を別の著作に書き留めている。
柳田先生经常慢步于三陆海岸。据说遭到明治时期海啸袭击的某个村落,逃得一命的人燃起巨大的篝火。有几人以黑夜中燃烧的火为标记,从吃人的海里游出,柳田先生把这些所见所闻记录在了别的著作里。
時は流れて、平成の大津波の犠牲者にはこの夏が新盆となる。救援の火ならぬ、霊を迎える火が方々で焚かれよう。門火(かどび)、精霊流し、茄子(なす)の牛。帰省しての一族再会。迎え火から送り火までの数日は、日本人の情念が最も深まるときだ。
时光流逝,在平成大海啸中遇难的人们迎来了这个夏日第一次盂兰盆节。很多人会点起迎接亡灵的火如门火、河灯以及茄子牛而非救援的篝火。亡灵们回到家乡和家人聚首。从迎接之火到送别之火的几日间,正是日本人感情最深的时刻。
人の生も、人の死も、自然や共同体という、人を包んでくれる世界の中でこそ完結する。しかし近年はそれを壊し、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏んできた。その功と罪を、震災後の夏はあらためて問いかけてくる。
无论人生存抑或死亡都是在笼罩人的世界中完成,这个世界和自然是一体的。但是,近年来人们破坏这世界,加速朝切断该联系的方向前行。震灾后的夏日,将重新拷问其功与过。
「遠野物語」に戻れば、妻の霊を見失って帰った夫はその後久しく煩(わずら)った、と一話は結ばれる。時代は移っても、人の心は変わらない。かなしさの中に、汲(く)むべきものが見えている。
回到《远野物语》,故事的结局是不见妻子亡灵后回家的丈夫此后长期处于烦恼之中。虽然时过境迁,但人心不变。在悲伤中,看到了应该吸取的教训。