ある電力会社の不祥事についてこう書いた。「こんな会社からはもう買わないと、家中のコンセントを抜いて回るわけにもいかない」。ほどなく読者からご指摘を受けた。論旨にではなく、言葉遣いにである。
曾写过一篇关于某电力公司丑闻的文章。“不想再用这家公司的电了,但又不能把家里所有的插座都拔下来。”不久就收到了来自读者的指正。他所指的不是我的观点而是用词方面。
▼「ここで抜くべきはプラグです。コンセントは壁にある差し込み口の方で、抜いて回れば火事になる」。ちぎれた配線が火花を散らす図が浮かぶ。心の声は「コンセント抜くって言うよなあ」と強がるも、慣用は疑うべしと反省した。
“这里要拔掉的应该是插头。插座是安在墙壁上的,拔下来的话会引起火灾。”脑中马上浮现出断掉的电线直冒火花的情景。心里虽然还逞强“我说的是拔掉插座......”,但还是反省了一下,我们应该对习惯用法报以怀疑的态度。
▼なんとなく多用されてきた言葉が、誤用の色を帯びることがある。最近では「愛の鞭(むち)」だ。大阪でバスケ部主将が命を絶って以来、体罰への視線は厳しい。教え子を本気で愛するなら鞭など使えるかと。
不知不觉地常用的词语中存在着误用的现象。最近,“爱的鞭策”这个词就属于误用。大阪某高中篮球部的主力队员去世之后,人们对于体罚的关注越发严格起来。若是真的爱护自己的学生,会使用鞭子吗?
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