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美文鉴赏--樱花与武士道(中日对照)


古来から日本人が好んで(このんで)来た花でした。桜を愛でる(めでる 愛する)心は、西洋人がバラの花を愛でる心と通い合える(かよいあえる 共感できる)ところはほとんどありません。バラには桜が持つ純真さ(じゅんしんさ)が欠けています。さらには、甘美さ(かんびさ)の下にトゲを隠しています。「生」に執着(しゅうちゃく)し、無残にも散っていくよりむしろ茎についたまま朽ちる(くちる)ことを選び、あたかも死を恐れるかのようです。その華美なる色合、濃厚なる香気…これらすべては桜と著しく異なるところです。日本人がこよなく愛する桜は、その美の下に刃も毒も潜めず、自然のおもむくままに、何時でも(いつでも)散る準備ができています。その淡い色合は華美(かび)とは言えませんが、そのほのかな香りには飽きることがありません。


自古以来日本人民就喜爱樱花。 然而日本人喜爱樱花却不同于西方人喜欢玫瑰。玫瑰缺少樱花那样的纯洁、美艳中暗蔵着花剌。更进一步的说,玫瑰对生命十分执着,宁可死赖在枝头上也不愿随风凋落,换句话说它恐惧的是死亡。绚丽的色彩,浓郁的花香这一切的一切都不同于樱花。日本人民热爱的樱花美丽之余不会隐藏任何毒刺,顺其自然随时做好凋谢的准备。淡雅的颜色说不上华美,但是淡淡的清香让人不觉厌倦。


パッと咲いてパッと散る桜。長い冬に耐えぬいても花が散ってしまえば、葉っぱだけ。そして毛虫の住み家に。実を残す梅のような花とは全く違うのです。実利(じつり)のあるものは殆どありません。今か今かと期待感を煽って(あおって)、一瞬の旬を見せた後は、潔く(いさぎよく)表舞台から引いて行きます。これがいいんです。桜の生き様は、武士道に通じるところもありますね。


樱花瞬间开花瞬间又随之凋零,在熬过漫长冬季之后花开花谢只剩下叶儿留在枝头,成为毛虫的家。不比那些如梅花那样开花又结果的,没有任何实际利益可图。在期待中只盼着今朝一瞬的美丽,昙花一现之后心甘情愿地隐去,这正是樱花的好处。樱花的一生和日本的武士道有着几分相似之处。


日本人の中の特別な存在ーー武士にとって、桜の魅力は花が散っている時のすばらしさにありました。自分の命は花のように短い、無常(むじょう)ですが、主人を守るために、命をかけても、かまわない、死んでも桜のように見事な終わり方をしたいという武士の思いです。武士は桜が満開の時より、特に枯れる(かれる)時が好きです。これは日本の武士の最も高い境界で、片時(かたとき)のまばゆい美しさの中で自分の人生の最高峰を達成して自分の最大の価値を発揮して、その後豪快(ごうかい)に自分の生むことを終える名残惜しがった(なごりおしがった)のがありません。


相对于日本人心目中的特别存在--武士,他们认为樱花的魅力在于它凋落时的不同寻常。对于武士们而言,生命如花一般短暂而不定。为求保护主人,生命可以不要。面对死亡,他们希望能够像樱花那样完美地结束自己的一生。武士们爱樱花更爱樱花凋零的那一瞬间。在武士们眼里,那是最高的境界。在片刻的辉煌中,自己的人生达到了最顶峰,自己的最大价值得到了发挥,之后便可以毫无遗憾地终结自己的生命了。


「花は桜木、人は武士」という里謡(りよう)によって日本人が桜と武士をどれほど尊重していたかがわかります。武士は人々の手本になり、彼らの桜観は日本人に大きな影響をもたらしました。そして、その桜観は今も社会の主流になっているでしょう。


日本的民谣中有这么一句:〝花数樱花,人数武士。” 可见樱花和武士在日本受到了很大的尊崇。武士是日本人的楷模,他们的樱花观给日本人民带来很深的影响,迄今为止这一观念还成为社会的主流。


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