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1977年の11月15日を、具体的に記憶している人は少ないだろう。最近、あの頃の日記を引っ張り出した。〈15日(火)奨学金入る/明日のバイトはきつい/前期の成績も心配〉。東京で一人暮らしの学生にとって、ありふれた一日だった
很少有人还清晰地保留着2007年11月15日的记忆吧?最近,随手翻起了那个时候的日记。有段这么写着:“15日(周二),拿到了奖学金/明天的打工有够呛/担心期中考的成绩”。对于独自一人在东京求学的学生来说,这是再正常不过的一天了。
▼その日の夕刻、新潟市の中学1年生、横田めぐみさんが行方不明になった。両親の滋さん、早紀江(さきえ)さんには、忘れたくても忘れられない、特別な日になった
新泻市的初一生横田惠,却与那天傍晚时分失踪了。对于其父母横田滋和横田早纪江来说,这天成了特殊的想忘 却又无法忘记的一日。
▼帰りが遅い娘を案じた母は、部活のバドミントンが長引いているのかと学校に急ぐ。体育館から漏れる照明と女性の声に安心するが、ママさんバレーの練習だった。東京の学生が、アパート近くの中華料理屋で野菜炒(いた)めか何かを食べていた時刻だ
担心迟归女儿的母亲,想着会不会是因羽毛球社团活动的延时而急勿勿地赶赴学校。体育馆里照射出的灯光和女性的声音,使她放下了心中之石。可殊不知,里面进行的却是妈妈排球队的训练。东京学生的话,这个时候应该正在公寓附近的中华料理店里吃着炒菜或其他什么的。
▼新潟の母親は遥(はる)かに正確に、作りかけの夕食を覚えている。鶏のホワイトシチューは、ジャガイモが煮え切る前に火が止まった。転勤家族の平穏も、そこでぷつりと断たれた。多くの日本人にとって、この悲劇が「同時代の体験」となるのはずっと後のことである
在新泻的母亲至今仍清楚地记得当初做了一半的晚餐。白烩鸡肉在土豆煮好前熄了火。一个调职家庭的平静,也突如其来的打断了。对于多数日本人来说,这个悲剧成为“同时代的体验”是在很久以后。
▼早紀江さんは、娘の夢をめったに見ない。最後は小泉再訪朝の前だった。長い長い下りのエスカレーターに、20歳ぐらいのわが子がいた。声は届くが手が届かない6段先、赤いシャツで、赤ん坊をおぶっていた。その残像さえ宝物だ
早纪江很少会梦见自己的女儿。最后一次是在小泉再访朝鲜前。漫漫长长地电梯上,站着我那20岁左右的女儿。能听到她的声音,却够不着她人,她站在我之前的六个阶梯上,穿着红衫,背着个婴孩。连这个残存的印象都成了宝贵的东西。
▼「私たちができることは全部しました。早く静かに、普通の人になりたい」。自分の名が難しいからと選んだひらがな3字。いつの間にか、国家犯罪を告発する記号になった。親子の30年を奪ったまま、極東を次の冬がつつむ。
“我们能做的,都已劲力了。希望她能早日回归清静,做个普普通通的凡人。”因为自己的名字挺复杂的,所以给女儿的名字选了三个平假名。不知何时却成了告发国家犯罪的标记。就这么剥夺了亲子间的30年时间,下一个冬季依旧圈缚着远东。