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東京が春先の雨に煙ったきのう、武蔵野と呼ばれる西の郊外を歩いた。散見する落葉の木々は、まだ裸のままだ。作家の藤沢周平さんは生前、このあたりに住み、雑木林の冬姿を好んだ。
昨天,东京笼罩在初春的烟雨中,我漫步于西郊一个叫武藏野的地方。落叶乔木随处可见,枝桠仍是光秃秃的。作家藤泽周平生前就住在这一带,他喜欢杂树林的冬景。
〈冬の木々は、すべての虚飾をはぎとられて本来の思想だけで立っている〉と随筆に書いた。そして、〈もうちょっと齢(とし)取るとああなる、覚悟はいいか〉と自らに問うている。来し方をごまかすことのできない立ち姿を、裸の木々に見たのだろう。
他在随笔中写道:“冬天的树木,卸去所有的伪装,仅以本来的思想屹立着”。然后,他自问:“再过几年自己也会变成那样——自己作好这种精神准备了吗?”。想必他是透过那光秃秃的树木看到了自己的无法掩藏过去的晚景吧。
その木々も、春がめぐれば緑をかえす。雨は雑木林を遠くにけぶらせ、けぶる中で冬芽がゆるむ。きのうの雨は、さしずめ「木の芽雨」である。北の地方では、初めて雪を交えずに雨だけが降り続く、いわゆる「雨一番」だったかもしれない。
这些树木一逢春天便会恢复绿色。杂树林因春雨而朦胧迷离,冬芽在烟雨中舒展。昨天的春雨归根到底是一场“催芽之雨”。在北方地区,也许它是首次只下雨不带雪的所谓“第一场春雨”。
梅は凜(りん)、桜は艶(えん)。ならば桃にはどんな一字を献じようかと過日書いたら、たくさん便りをいただいた。うららかの「麗」をはじめ、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)の「蕩」、可憐(かれん)の「憐」、それから「雅」「満」「優」「華」……。美しい意味の「姚」など「女」を含む字が似合う、というご意見もあった。
梅“凛”樱“艳”。那么该给桃花怎么样的一个字呢?——前些天我这样写道,结果收到很多的来信。从明丽的“丽”,到春风骀荡的“荡”、怜爱的“怜”,然后是“雅”、“满”、“优”、“华”……。也有人建议,美好之意的“姚”等带
“女”旁的字比较合适。
亡き母や夫の面影を、桃の花に重ねる方もいた。自然は色をかえすのに、人は歳々年々同じからず。命あふれる季節だからこそ、花にひそむ思い出のトゲが胸に刺さり、ふと悲しみは滴るのだろう。
还有人将桃花和已故母亲和丈夫的容颜联系在一起。“年年岁岁花相似,岁岁年年人不同”。想必他们是因为这个季节充满生机,内心(被)潜藏花中的思念之苦刺痛,才突然悲从中来的吧。
〈好雨時節を知り、春に当たりて乃(すなわ)ち発生す〉(杜甫)。よい雨は時を心得ていて、春になると降り出して万物を育む。麗、蕩、憐、雅……それぞれの思い描く一文字にも、ひと雨ごとに春が近づく3月である。
“好雨知时节,当春乃发生”(杜甫诗)。好的雨懂得季节时令,为孕育万物,一到春天就会降落。这三月啊,每下一场春雨,春天就会更接近“丽”、“荡”、“怜”、“雅”等这些大家各自在心里描绘的形容桃花的字境了。