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きのうに続いて、銃のことを書きたい。米国で銃問題を取材したとき、銃器店で、銃口を我が身に向けてくれ、と頼んだことがある。どんな気がするのか試したかったからだ。
继续昨天的话题,想接着写枪。在美国采访时,曾在枪械店请人把枪口对准自己。因为想体会那是怎样的感受。
弾を込めた、冷ややかな銃口が胸の前で止まると、息が詰まった。撃たれないと分かっているのに、怖気(おぞけ)が体を突き抜ける。わずか10秒ほどだったが、人を萎縮(いしゅく)させる「暴力」のおぞましさを、垣間見る思いがした。
装了子弹的、冰凉的枪口停在胸前时,顿时觉得窒息。尽管知道不会被射击,但恐怖仍然贯穿整个身体。仅仅10秒种的时间,却切实窥探(?)到了另人萎靡的“暴力”的可怕。
その暴力に、民主主義は何度も苦い汁を飲まされてきた。「投票(バロット)は弾丸(ブレット)より強い」と言ったのは、米の16代大統領リンカーンである。民主主義の象徴のように語り継がれる彼もまた、南北戦争のあと凶弾に倒れている。米の政治は弾丸との戦いでもあった。
暴力,使民主主义不断遭遇坎坷。“投票胜过子弹”,这话出自美国第16任总统林肯之口。但被流传为民主主义象征的他,也倒在了南北战争之后的枪弹之下。美国的政治也是与枪弹间的战争。
弾丸が投票を脅かす事件が、日本で起きた。長崎市の伊藤一長市長が、選挙戦のさなかに銃で撃たれ、命を落とした。動機が何であれ、選挙の候補者を狙った凶行は、民主主義への卑劣な挑戦にほかならない。
子弹威胁投票的事件,在日本也有发生。长崎市的伊藤一长市长,在选举的高潮时被枪击身亡。无论动机何在,瞄准选举候补者的凶行不外乎都是针对民主主义卑劣的挑战。
伊藤氏は被爆地の市長として、核廃絶に奔走してきた。95年には外務省の圧力をはねのけ、国際司法裁判所で「核の使用は国際法違反」と証言した。銃という、やはり人間の作った武器で命を奪われたのは、無念だったに違いない。
伊藤作为被轰炸过的市的市长,曾为废弃核武器而奔走努力。95年不顾外务省的压力,出庭国际法院证明“使用核武器有背国际法”。结果仍是被枪---这种同是人类制造的武器夺去性命,实在遗憾。
「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。米の作家ノーマン・メイラー氏は昨年、朝日新聞に語った。その民主主義と、暴力で人をねじ伏せるテロとは、何があっても相容(あいい)れないことを、あらためて、つよく確認したい。
美国作家诺曼·梅勒去年在朝日新闻里说过,“为了下一代将每天点滴的变化积累下去,这就是民主主义”。不禁产生想要再次、清楚得(?)验证无论发生什么事,所谓民主主义和暴力逼至的示威都是不能相容的想法。
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