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「アンネの日記」のアンネ・フランクの父親が第二次大戦の初期に書いた手紙が米国で見つかった。米への移住ビザの仲介を知人に頼んだ数通で、先ごろ公表された。 在美国发现了“安妮日记”的安妮福兰克的父亲在第二次世界大战初期所写的信件。前不久政府公布了他委托熟人办理移居美国的签证的数份信件。 移住の理由を、父は「2人の娘のために」とつづっている。だが結局ビザは得られず、一家はナチスに捕らえられ収容所に送られる。多感な日記をつづった次女アンネは、過酷な日々の果てに15歳で息をひきとった。 父亲写道移居的理由是“为了2个女儿”。但是,最后却没取得签证,一家被送往由纳粹党控制的收容所。写下忧郁日记的二女儿安妮在极端残酷的折磨下,停止了呼吸,时年15岁。 手紙の公表の際、説明役の歴史学者は「(もしビザが出ていれば)アンネはいま、ボストンに住む77歳の女性であったかもしれない」と語ったそうだ。悲しい名を残さず、人が平凡に生きられる。その重みに思いを寄せた言葉だろう。 据说在公布信件时,作为说明人的那位历史学家曾说“假如寄出签证的话,或许安妮就是一位现在居住于波斯顿的77岁女士”。人不留下悲伤,才能平凡地生活。那份沉重会让人想起这句话吧。 思い起こすのは、同じ大戦初期にリトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)のことだ。迫害におびえる多くのユダヤ人に、日本を経由して第三国へ抜けられるビザを出した。外務省はドイツとの関係に配慮して発給不可を指示したが、杉原はビザを出し続けた。 这让我想起了同样是在大战初期立陶宛领事代理杉原千畝的事迹。他通过日本给担心遭到迫害的许多犹太人发放前往第三国的签证。外交部考虑到和德国的关系,下达了不可发放的指示,但杉原继续发放签证。 その「命のビザ」の物語を、東京の劇団銅鑼(どら)は15年にわたり上演してきた。9年前のニューヨーク公演で「スギハラに救われた」という女性が名乗り出た。団員を郊外の自宅に招き、古びたビザを見せて、来し方を語った。 东京剧团铜锣历经了15年一直在上演那个“活命签证”的故事。9年前的纽约公演上,出现了一位自称“杉原解救了我”的女子。她邀请剧团团员到她郊外的住宅里,给他们看那个旧签证,诉说了来美做法。 ビザを受けたとき、アンネの享年と同じ15歳だった。姉と2人でシベリア鉄道を経て敦賀に着き、横浜から船で米に逃れたという。戦後に米国人と結婚し、5人の孫のいる静かな暮らしを送っていた。この人とアンネの運命は、入れ替わる可能性もあっただろう。名もない人生を築けることの幸せを思う。
收到签证时,她和安妮一样15岁。据说她和姐姐2人经过西伯利亚铁路到达敦贺,从横滨坐船逃往美国。战后她和美国人结了婚,现有5个孙子,过着平静的生活。她和安妮的命运也可能调换吧。这让我怀念起了构筑无名人生的幸福。
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