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2006年12月30日の「天声人語」

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今年も、明日の大(おお)晦日(みそか)を残すのみとなった。一年を顧みながら、近づく新しい年の足音に耳を澄ます。どんな年が来ようとしているのか。歳末のあわただしさやざわめきの中に居つつ、何かを待つことが身にしみる時節だ。

今年也就剩下明天(除夕)这一天了。一边回顾旧年,一边倾听逼近的新年脚步声。即将来临的会是什么样的一年呢?一边身处岁末的忙乱和嘈杂中,一边又感觉有所期待。岁末就是这样的时节。
 

「田舎道。一本の木。夕暮れ」。そんな舞台の上で、二人の男が「ゴドー」なる者を待つ。アイルランド出身のノーベル賞作家サミュエルベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」の始まりの場面だ。

“乡间一条路。一棵树。黄昏。”在这样的舞台上,两个男人在等待一个叫“戈多”的人。这是爱尔兰籍的诺贝尔文学奖获奖作家塞缪尔·贝克特的戏剧《等待戈多》的开场。


 いつまで待っても、ゴドーは現れない。そして、二人はこう言い合う。「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」。二人は、動かない——幕(安堂信也、高橋康也訳『ベケット戯曲全集』白水社)。二人は、動かないのではなく、動けないのかも知れない。それは、閉塞(へいそく)感が濃く漂う時代や、そこで営まれる人々の生や孤独といったものを示すようにも思われる。

无论怎么等待,戈多始终没有出现。于是,两人进行这样的对话:“那,咱们走吧?”“啊,咱们走吧!”。但两人并不走——谢幕。也许两人不是“不走”,而是“不能走”。该剧也被看成是揭示了封闭色彩浓郁的时代以及生活在这个时代的人生和孤独。
 

パリでの初演から半世紀余りになる。ひたすら待ち続けるだけという、それまでの作劇法を否定する手法は衝撃的で、「不条理演劇」の代表作として世界で広く演じられてきた。

该剧在巴黎初次公演至今已有半个多世纪。“只是一味的等待”的这种反传统的戏剧表现手法,很有冲击力,曾作为“荒诞派戏剧”的代表作在世界上广为上演。

 

今年は、ベケットの生誕100年にあたっていた。ダブリン近郊の生まれだが、彼は、母親の胎内にいたころの、誕生前の記憶があると公言していたという(『ベケット伝』白水社)。あの三島由紀夫は、生まれた直後の、産湯を使ったときのことを覚えていると言っていたというが、天才の世界とは限りの無いものらしい。

今年是贝克特诞辰100周年。他出生于都柏林近郊。据说他曾声言自己有关于诞生前即在母亲胎内时的记忆。据说三島由紀夫也说过记得自己刚出生时洗过婴儿澡,天才的世界似乎是无所不能的。
 

間もなく、新しい年が生まれようとしている。ゴドーとは違って、それは確実にやって来る。

 

新的一年即将诞生了。和戈多不同的是,这新年一定会到来的。

 

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