您现在的位置: 贯通日本 >> 学习 >> 天声人语 >> 正文
2006年12月14日の「天声人語」

论坛讨论地址:

http://www.kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=82017&page=1

 長崎市で被爆した翌日、救護所で生後4カ月の次男に乳を含ませていた若い母親が、声をかけられた。「写真を撮らせてください」。「新型爆弾投下」の報を受けて福岡から駆けつけた陸軍報道部員、山端庸介さんだった。

长崎市原子弹爆炸的翌日,在救护所一位年轻的母亲正在给4个月大的小儿子喂奶,这时听到别人喊她,喊她的人说“请允许我给你照张像”。那个人是得知“投下了新型炸弹”报道后,从福冈赶来的陆军报道部报道员山端庸介。

 「優しか声の男の人でした。あん時は、乳ば出しよったですが、恥ずかしいとか考える余裕もなくて、『はい』と答えたように思います」。ほおに傷を負った母親が胸をはだけ、やはり顔にケガをした幼子が**に吸いつく写真はこうして撮られた(加世田智秋編著『語り継ぐあの八月を』北水)。被爆の数日後に亡くなった長男に続いて次男も死亡する。

“他的声音很柔和。当时,我是露出**的,但没工夫考虑到害羞什么的,我便回答说‘可以’。脸上负了伤的母亲敞着怀、脸上也同样负了伤的婴儿吸着**的照片就这样被照了下来(加世田智秋編著《继续讲述那年八月的故事》北水)。在原子弹爆炸数日后,继大儿子之后小儿子也都死去了。

 当時30歳だった母親、田中キヲさんが、91歳で亡くなった。元気だったころに取材した加世田さんに、毎年の原爆の慰霊祭には、失った子どもたちのためひたすら「ゆっくりと眠りなさい」と祈ると述べた。

当时30岁的母亲田中kio女士逝世了,享年91岁。她在健康的时候曾接受过加世先生的采访,她对他说,每年在爆炸日的纪念仪式上她都会为失去的孩子们不断地祈祷“愿你们睡得安稳”。

 そして、こう続けたという。「でも、何で半世紀過ぎても戦争がなくならんとですかな……本当に人間はしょうのない生き物だと思いますよ」

她还说:“可是,为什么半个世纪都过去了战争还没有消失啊。我觉得人类真是不可救药的生物”。

 山端さんは、後に原爆撮影のメモを書き残す。人間の記憶は、年々環境の変化や生活の変化で批判が甘くなったり、誤ったりする。しかし、「キャメラが把握した当時の冷厳なる事実は、少しも粉飾されず……冷静にそのまま皆様方の前に報告しております」(『ヒロシマナガサキ原爆写真絵画集成』日本図書センター)。

山端先生在后来还写下了爆炸照片的注解。人类的记忆,因年年的环境变化和生活变化而逐渐缺少了批评或发生记忆错误。但是,“照相机摄下的当时的冷峻严酷的事实,没有一点粉饰……它在大家的面前冷静真实地述说当时的情况”(《广岛长崎原子弹爆炸照片绘画日本图书中心)。

 山端さんとキヲさんとの出会いは、いわば一瞬のことだった。その一瞬をとらえた一枚は、あの惨禍を永遠に語り続けてゆくだろう。

山端先生和田中kio女士是所谓瞬间的相遇。抓住瞬间的一张照片将永远继续讲述下去那时的惨祸吧。

文章录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

相关文章