论坛讨论地址: http://kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=79535&page=1 大人でも三抱えはありそうなイチョウの巨木の真下に立つ。頭上に覆いかぶさる枝の葉は、まだ青々としている。黒々とした地面には、赤や黄に色づいたケヤキの葉がびっしりと散り敷いている。 三个成年相围方能圈起来的银杏树,站在这样的大树下,上面顶着的是严严实实的树叶,还正泛着青绿色。黑乎乎的地上是落了一地的红的黄的榉树叶。
この東京都心の公園では、去年はケヤキの葉が枝先で茶色に縮んでしまった。それが、以前のように一枚一枚が形を十分に保って、いわばのびのびと横たわっている姿に、ほっとする。
大イチョウの下を抜け、やや離れて全体を眺める。木の上の方は、ところどころ色づき始めている。淡い黄色の帯が、幾筋も垂れ下がっているかのようだ。全身に金のうろこをまとって燃え立つ日も、遠くない。
今年の晩秋も去りつつある。初冬との境目には独特の憂愁が漂う。実りの秋は、木々の枝をたわわにし、稲の穂を満たして、こうべを深く垂れさせた。そのずっしりとした豊かな情景の後に用意された季節だからこそのわびしさがある。 晚秋已渐逝,空气中也开始弥漫起初冬特有的忧愁。丰收的秋季,硕果满枝丫,稻穗低垂头。在这样的一个丰厚的秋季过后,才会出现的静谧感。
山本周五郎の時代小説「晩秋」には、かつては藩の主柱とされたやりての人物が、晩年に不遇になる姿が描かれていた。葉を落とした庭の櫟(くぬぎ)を眺めつつ述懐する。「花を咲かせた草も、実を結んだ樹々も枯れて、一年の営みを終えた幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りにはいろうとしている、自然の移り変りのなかでも、晩秋という季節のしずかな美しさはかくべつだな」(『町奉行日記』新潮文庫)。 山本周五郎的古典小说《晚秋》曾有描写藩区部落里的一个头领晚年时不得志的片段。看着满院的栎树落叶,心生无限感慨。“不论是让花盛开的小草(是不是指当肥料啊?汗),还是果实累累的树木,都枯谢了,经历了一年的杆杆枝枝都将变得光秃秃了,开始想要进行在漫长冬眠了。四季轮回中,晚秋真是有着具一格的美。” (《町奉行日记》 新潮文库) 一年の営みを終える木々の姿には、見る側に、この一年を顧みるようにと誘うような風情がある。多くのカレンダーも、今日一日で、あと一枚になる。 望着那些经历了一年风雨的树木,不由得被一种思绪勾起,让人回忆起这一年来的点点滴滴。许多的日历也是这样的吧,今天又是一天,过了今天就还剩一页了。 |
2006年11月30日の「天声人語」
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