论坛讨论地址: http://www.kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=62748&page=2 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」。芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭だ。この「月日は永遠の旅人……」の一節からは、月日の上を歩む人もまた旅人かといった連想も浮かんでくる。 「人生とは旅であり、旅とは人生である」。サッカーの日本代表、中田英寿選手の「引退宣言」の見出しに、そんな文言があった。29歳の青年と、「人生とは旅……」との取り合わせに、面白みを覚えた。 確かに、サッカーの世界では、多くの旅を重ねてきた。国内にとどまらず、外国に進出した。日本選手のさきがけのひとりで、時代のフォワードだった。 ゲームでの働きも、その風貌(ふうぼう)にも、独特の存在感があった。何かに噛(か)み付いてゆく、たけだけしさを備えていた。その姿が見られなくなることには、一抹の寂しさがある。しかし「中田英寿の旅」は、まだこれからも続く。 歌集「独り歌へる」に、「私は常に思つて居る、人生は旅である」と記したのは、若山牧水だった。サッカーとは懸け離れた世界に住んだが、やはり、独特の働きと風貌とを備えていた。牧水は続ける。「我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない」 月日は永遠であり、途絶えることがない。人の方は、世代というもので連綿と連なっているが、ひとりの人間にとっては、一度行き着けば繰り返しは無い。その一度だけの、いわば片道の旅の重さや悲哀や妙味を、改めてかみしめた。 岁月是永恒的,没有尽头。人们世代相传延续着生命。对于一个人来说,一旦到达目的地就不可能再回头。再一次咀嚼,这唯一的单程的旅行中所蕴含的沉重、悲伤与意味。 |
2006年07月05日の「天声人語」
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