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2006年01月07日の「天声人語」

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長さが一定で改行のないこのコラムでは、句読点の置き方に制約がある。字数があふれて削るテンもあれば、半端な位置のマルに手を焼く日もある。句点も読点も、一筋縄ではいかない。

在这个行文长短一定,又没有换行的专栏中,句逗的位置也是受限制的。有时因字数超标只得将逗号删掉,而有时又为了要在零星的位置上安放一个句号而大伤脑筋。总之句逗号的处理也大不平常了

 どの道にも専門家はいるもので、たとえば群馬県高崎市の元高校教諭、大類(おおるい)雅敏さんは句読法を研究して40年になる。『句読点活用辞典』など著作も多い。同学の士が集まると「モーニング娘。」の「。」は是か非かなどと議論に花が咲くそうだ。

哪一行都有专家,例如,曾是群马县高崎市某高中教师的大类雅敏先生就致力于标点符号的研究40年了。有《句逗点活用辞典》等多部著作行世。据说同道们一碰头,常常会为了“早安少女组。”中的“。”是否妥当展开热烈讨论。

 大類さんによると、西洋ではプラトンの昔から句読法が盛んに研究されてきた。コンマ、ピリオド、セミコロンと種類も多い。日本では紫式部のころには文章に句読点がなかった。疑問符や感嘆符も江戸期の輸入品である。

根据大类先生说法,在西方,标点符号的研究是从柏拉图时代起就相当盛行的。代么逗号、句号、分号等等,种类很多。而在日本,紫式部时代的文章中是没有标点筏号的。问号、感叹号之类都走江户时代的舶来品。

 大類さんが句読点にひかれたのは20代後半、権田直助という幕末の学者の著作に接してからだ。権田は神官にして医家で尊皇の志士でもあった。政治犯として(ゆう)(へい)された明治初年、句読研究に没頭し、「国文にもきちんとした句読法を確立せよ」と主張した。生家の跡が埼玉県毛呂山(もろやま)町にある。


大类先生是在30岁不到,接触到了幕府末年一位名叫权田直助的著作后才对标点符号产生兴趣的。权田还是一位神职人员、医生和尊皇的志士。明治初年,他以政治犯而身陷囹圄之时,埋头于标点符号的研究,提倡“为国文确立规范的标点符号体系”。他的老家在石琦玉县毛吕山镇。

 句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。


说起标点符号,我在石福岛县猪苗代镇的野口英世(注:1876~1928。细菌学者。曾留学美国。1911年成功地培养出梅毒螺旋体。1913年证明进行性麻痹及脊髓痨是梅毒性疾病。在西非的阿克垃研究黄热病原时,受戚染而病逝)记念馆里所见的,他母亲鹿子写给他的亲笔信上的标点,令我难忘。“你的。出人头地。叫大伙都很惊讶。”云云。那是一封叫英世回国的信,从信的实物上来看,那句点的圆圈与字一般大小,并且它不是在一行的靠边处,赫然画在了行的中央。

 幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。

据说那封信是他母亲极力回忆着幼时所学的字而串起来的。那兼作逗点的圆圈,透示出母亲专注的思念之情。我觉得我所看到的是句逗的结晶。

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