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2005年09月01日の「天声人語」

作者:amao  来源:贯通论坛   更新:2005-9-1 11:30:00  点击:  切换到繁體中文

 

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1923年、大正12年9月1日の昼前、寺田寅彦は東京・上野で絵の展覧会を見た。11時58分、喫茶店で紅茶を飲んでいるときに、関東大震災に遭う。

 両足のうらを下から木槌(きづち)で急速に乱打されるように感じた。物理学者でもあった人らしい表現だ。次いで、大きな揺れが来た。われ先に出口に駆け出す人たちがいる一方、ビフテキを食べ続ける客もいた。

 震災時の東京を、作家の著作で横断的に見ると、揺れや被害は場所によってかなり違った。家の被害が瓦の落下程度だった芥川龍之介は、早々と見舞いに出かけた。室生犀星には、子守車にサツマイモやジャガイモをいっぱい積んで届けた。

 犀星は、生まれたばかりの赤ん坊と妻が入院していた都心の病院が焼けたと知らされる。避難先は不明という。その夜はほとんど眠れず、翌日上野の公園を捜し回ってようやく妻子と出会った。

 幸田露伴の娘、文は、1日が19歳の誕生日だった。住まいは隅田川の東方で、被害はさほどではなかったが、傷ついた避難民が続々とやってきた。萩(はぎ)すすきが見ごろの庭を休み場に開放したが、誰も入ろうとしない。人々は放心してたたずみ、みとれ、涙をこぼしたという。

 芥川が、佐藤春夫に言っている。「地震だからいまいましいよ……たゞ自然が四寸動いただけなのだ……不服の持って行きどころがない」。芥川は、震災で燃える東京を「大いなる溶鉱炉を見るが如し」と記した。自然が動くのは、いまだに止められない。しかし炎の炉の方は、少しでも小さくなるように備えてゆきたい。

1923年,即大正12年的9月1日上午,寺田寅彦在东京上野观看绘画展。11点58分,正当他在茶馆喝红茶时,遭遇到了关东大地震。

感觉就像是从下面用木槌猛烈快速地撞击两只脚底似的。他的形容有如物理学家。紧接着,开始了巨大摇动。有些人争先恐后地向门口跑去,而另一方面,也有的客人在继续吃牛排。

浏览作家描绘的地震时的东京,其摇动和受灾情况因地区不同而有很大的不同。芥川龙之介,受灾情况仅仅是房子掉落了一些瓦块,他马上就开始了出去探望他人的活动。他把地瓜土豆装满了婴儿车给室生犀星送了去。

室生犀星得到消息说,刚出生的孩子和妻子所住的东京都中心医院着火了,但不知道人到哪里避难了。当夜,他几乎没有睡觉,第二天他在上野公园找寻时,终于碰到了妻子。

幸田露伴的女儿阿文,9月1日那天是19岁的生日。她家住在隅田川的东边,受灾情况倒不算太严重,而受伤的避难者源源不断地来到她家。院子里正是胡枝子、忙草繁茂的时候,腾出院子供大家休息,但是没有人走进院子里。人们茫然地站立着、眼盯着什么出神、或者在流泪。

芥川龙之介对佐藤春夫说过这样的话:“地震嘛当然令人厌恶啦……但是大地只不过动了4寸……没必要有什么不服气的”。 芥川龙之介把地震燃烧的东京描写为“仿佛是在看巨大的熔炉”。自然的变化至今还不能够阻止。但是,希望做好防备,使燃烧炉变得越小越好。


 


 

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