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日付で記憶される出来事がある。何年か後でも、その日どこにいて何をしていたかという話になる。多くの人が3・20で記憶する地下鉄サリン事件は、明日で発生から10年になる。
有些事情可以用日记帮你回忆。即使过了许多年,你还是可以知道那一天你在哪、做了什么事情。在很多人的记忆中,3月20日所发生的沙林事件,到明天就是整整10年了。
あの朝は、東京郊外の家をいつもより遅れて出た。前日に出張から帰り、荷解きしたものを整理していたからだ。都心の駅で外に出たところでヘリコプターが舞うのを見、新聞社に着いて事件を知った。
那一天,我比平时晚一些离开东京郊外的家。因为前天才出差回来,正在整理行李。当我离开东京车站来到马路时,我发现直升飞机在头顶上盘旋,而我来到报社时,我才知道出了大事。
いつも通りか、やや早めに出ていれば、どこかで事件に巻き込まれた可能性はある。テレビ画面に映った横たわる人は、自分だったかもしれない。都心に通う人は、そんな思いを共にしただろう。
要是按平时时间或是稍微早一点出门,很有可能我也会在某个地方被卷入这个事件中。横卧在电视画面中人也有可能会是我自己。来往与东京的人们,大概都抱有这个想法吧。
翌春、元教祖の初公判があった。判決の時期について「今世紀中は無理ではないか」と社内の会議で述べた。その遠さに周りが少しどよめいたようだった。その後、教団の本拠地だった山梨県の上九一色村へ行き、サティアンと呼ばれた巨大な建屋の群れを見た。富士山のふもとに、これだけ異様なものが立ち並んでいたのに、なぜ犯行を許してしまったのかと悔やまれた。
1996年的春天,对邪教团体奥姆真理教的元教组进行了初审判决。审判会议中说道:“本世纪真是太难了”四周有些骚动。这之后我去了曾经是教团大本营的山梨县的上九一色村。看到了被称为“杀你庵”的巨大建筑群。在富士山的脚下竟然有这么一座异样的房屋,为什么会纵容这种罪恶,人们后悔不以。
一昨年と昨年、元教祖の裁判を短時間だが傍聴した。黙して、時に口をもぐもぐしたり、あくびをかみころしたりしている。検察の論告も裁判官の言い渡しも傍聴席の痛切な思いも、はぐらかされているようだった。
前年和去年,对元教组又进行了判决。时间虽然很短,但我还是出席旁听。元教组时而沉默,时而嘟嘟呶呶,时而又哈欠连天。不论是检查官的呈述、审查官的宣告,还是旁听者的切肤之痛,他都敷衍了事。
オウムは国の中に国を造ろうとたくらんだ。標的は日本という国家だった。市民は、いわばその身代わりにされた。無差別テロの再発防止だけではなく、被害者や遺族への手厚い支えもまた、3・20が問い続ける課題だ。
奥姆妄想制造一个国中之国。目标就是日本。不用说市民自然成了替身。我们不仅要防止无差别恐怖事件再次发生,还应该给被害者以及家属极大的援助,这也是3月20日应该继续讨论的问题。