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2004年11月01日の「天声人語」

作者:ebitama  来源:贯通论坛   更新:2004-11-13 15:29:00  点击:  切换到繁體中文

 

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 いかにも弱々しげだった。なぜ危険なイラクにあえて行ったのか、と問いただしたくなるような気持ちにもさせられた。しかし、ビデオで遠慮がちに語る香田(こうだ)(しょう)生さんの言葉に、意外なほど心の奥深くを揺さぶられた。振動はつづいている。

的确是一副非常虑弱的样子。为什么非要到危险的伊拉克去呢?这不得不让人有一种不问明白不罢休的感觉。但是,通过录像传来的说话谦虚的香田证生的话语,却意外地让人从内心深处感到震惊。那种振荡至今尚在继续。

 自衛隊撤退を求めている、という武装集団の要求を紹介し、自分の命がかかっていることを言う。「すいませんでした」と謝り、「あと、また日本に戻りたいです」と独り言のようにつぶやいた。ぼそっとした一言に万感の思いを感じとる。あのとき、彼は自分が希求していたものに気づいたのではないか。

他介绍了要求自卫队撤出的武装集团的企图,还说自己的性命与此连在一起。又是道歉说“对不起了”,又是像在自言自语地嘟哝说“以后还想回到日本。”一句小声的话语让人感受到其百感的思绪。那时,他才真正意识到了自己所要希求的东西。

 59年前、香田さんより一つ若く23歳で戦死した青年がいた。「戦死やあわれ/兵隊の死ぬるや あわれ/遠い他国で ひょんと死ぬるや」の詩を残した竹内(たけうち)浩三(こうぞう)だ。彼は自分の運命を見通していた。状況はまるで違う。しかし「ながいきをしたい」と書き始める祈りのような詩は、香田さんのつぶやきと共振する(『戦死やあわれ』岩波現代文庫)。

59年前,有一位叫竹内浩三的青年,他比香田君小一岁,于23岁就战死沙场。他留下了这样的诗“战死诚可悲,捐躯亦可哀;身处他乡国,骤然辞世去。”他预料到了自己的命运,虽然情况完全不同,但是动笔写下“想长久地活下去”这种忧如祈祷似的诗却是与香田的嘟哝产生了共振(『战死诚可悲』岩波现代文库)

 香田さんは今年1月、ワーキングホリデービザでニュージーランドへ行った。突然なのかどうか、関心は中東に向いた。イスラエルにしばらく滞在したあと、ヨルダン経由でイラク入りした。

香田君于今年1月持就业许可的海外休假旅行签证去了新西兰。不知是不是突然改变了注意,他的兴趣转向了中东。在以色列稍事停留之后经约旦进入了伊拉克。

 明確な目的があっての旅というより、むしろ何か明確なものを探し求めての旅だったのではないか。たぶん名前のように「生の証(あかし)」を求めての。そして「日本に戻りたい」とつぶやいたとき、生きつづけること自体の価値を悟ったのではないだろうか。

与其说是有明确的旅游目的,到不如说是在寻找某种明确的东西而去旅行的更为确切。或许正如他的名字那样是寻求“生的证明”,并且在他嘀咕“想回到日本”之时,应该是悟出了生存下去之本身的价值。

 その生が無残にも断ち切られた。不条理との思いが募る。

他的一生就这样被无情地断送了,越来越觉得这不合理。

相关资料

竹内浩三

1921年(大正10年)5月12日、伊勢市吹上町の大きな呉服商の長男として産まれる。幼くして母と死別。明倫小学校を経て、宇治山田中学校へ入学、勉強は全くしないが、成績は全体の3分の1以内にはいっている。幾何が得意であったが、運動会ではいつもビリ、人並外れた陽気さで、よく周囲の人を笑わせていたという。岩波文庫や新青年を愛読する。 浩三の父は、浩三が芸術の道に進むことを反対していたが、父の死後、中学を終えるや上京して、日大芸術科映画科に入学する。 1942年6月、故郷に住む友人らとともに同人誌「伊勢文学」を創刊。詩や小説を発表する。 同年10月、浩三21歳の時、三重県久居の歩兵第三十三連隊に入隊、初年兵教育を受ける。翌年1943年9月20日、西筑波の滑空部隊、のちの空挺部隊に転属になる。筑波での、1年3ヶ月の訓練の間、最初の3ヶ月を除き、日記を書きつづける。 1944年12月、浩三の所属する空挺連隊はフィリピンに向けて出発する。12月19日に宇品を出航、フィリピンルソン島の西海岸にあるフェルナンド港に着く。 激しい戦禍の中、島の山岳地帯を斜めに横断し、バギオに向かう。公報によれば、浩三は1945年4月9日バギオ北方の1052高地で戦死。遺骨は還らなかった。4月28日、バギオ北方のトリダート街道で、浩三らしき空挺部隊員を見た、という未確認情報もある。

滑空部隊とは、落下傘部隊のグライダー版、と言えるもので、極めて危険な任務であった。>戻る

★竹内浩三略歴を作成するにあたり、『「戦争と平和」市民の記録2 「愚の旗ー戦死やあわれ」』竹内浩三著(家永三郎・小田切秀雄・鶴見俊輔監修 日本図書センター 1992年5月)と「Spotting」(Vol.12 夏 2000 文芸社) を参考にさせて頂きました。



 

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