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2005年01月25日の「天声人語」

作者:ebitama  来源:贯通论坛   更新:2005-3-12 6:00:00  点击:  切换到繁體中文

 

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日本に郵便の仕組みを採り入れる時、前島密(ひそか)は、料金をどう定めるかで思い悩んだ。その折、命じられて洋行し、郵便事業は政府の独占で料金は遠近均一と知る。「其時の心持といふ者は実に清々として、是迄の迷ひも全く霽(は)れ、雲霧を出て青天を望むといふ有様であつた」(『郵便創業談』)

在向日本引进邮政体系时,前岛密曾为如何制定价格而伤脑筋。那时,他被派出洋,得知邮政业因政府垄断价格为远近均等。“当时的感觉其实是很清楚的,一点也不糊涂,就是拔开云雾求青天。”(《邮政创业谈》)

そして創業2年後の1873年、明治6年に、太政官布告が出された。「量目等一ノ信書ハ里数ノ遠近ヲ問ハス国内相通シ等一ノ郵便税……」。今に続く、全国一律料金の始まりだ。

于是在创业2年后的1873年,即明治6年公布了太政官布告。“相同重量的书信不问里数的远近,国内统一邮税……”。这就是延用至今的全国统一价格的开始。

しかし、当時は「この手紙は軽い」「届け先が近い」などといって料金を負けろと談判する者もあった。茶やたばこを要求し、断られると横着だなどとののしる手合いもいた。前島は「郵便取扱所」を一時「郵便役所」と改め、官の威力を借りたと述べている。

但当时有人以“这封信份量轻”“投寄地近”等为理由,要求便宜一点的人。更有甚者还索要茶、香烟,一旦遭到拒绝就蛮不讲理、骂人。前岛还说曾一度将“邮政办理所”改为“邮政官署”来借助官方的威力。

「郵便局」となったのは明治8年で、身近な通信網として広がり、生き続けてきた。しかし、膨大な資金を集める世界最大の金融機関という面も問われるようになった。資金の運用にも問題は多い。

正式成为“邮政局”是在明治8年,作为身边的通信网而推广、保留下来。但是,在作为筹集庞大资金的世界最大的金融机关方面也被当作问题而提了出来。在资金的运作上问题多多。

民営化を掲げる小泉政権は、07年4月に4分社・民営化という方針を出した。支持基盤が地方にあり、郵政の組織を有力な支援団体としてきた自民党は抵抗する。郵政だけでなく、貯金、保険事業でも「全国一律サービス義務」を唱えた。

提倡邮政民营化的小泉政权提出了在07年4月实行4分社、民营化的方针,支持的基础在于地方,作为邮政组织有力的支援团体的自民党是持反对意见的。不仅是邮政、还有储蓄、保险行业也是倡导“全国一律服务义务”的。

郵便局を票の束と見ているとしたら、「一律」の創設者も嘆くだろう。何でも一律ではなく、重さ、大きさできちんと仕分けをして送り出さないと、将来の受け手が、とてつもない不足料金を背負う羽目になる。

要是把邮政局看成票札的话,则“一律”的创立者亦会叹息吧。不是什么都一侓,要是不把重量、大小加以区分寄送,那么将来的收信人就会陷于意想不到的欠付资金的困境。

相关资料

前島密(1835-1919)

近代的郵便制度の創設者。越後高田藩士より幕臣。維新後、駅逓頭となり、「郵便」「切手」などの名称を定める。国字改良論者としても知られる。



 

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