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日本各地にソビエトをつくろう。流通革命をプロレタリア革命に見立て、中内功ダイエー社長(当時)が著書『わが安売り哲学』で旧勢力打破を論じたのは1969年のことだ。時代の風潮に乗った過激ともいえる主張だった。
“在日本各地成立苏维埃吧,把流通革命看作无产阶级革命……”。1969年,大爱公司老总中内功先生在所著的《我的贱买哲学》中,对打破旧势力作了这样的论述。这可以说是趁着时代的潮流所发布的过过激主张。
2年後、大塚久雄、宇野弘蔵らの論文とともに『戦後日本思想大系8 経済の思想』(筑摩書房)に抄録された。編者の伊東光晴氏は、消費者主権を背景にメーカーへの対抗力を打ち出そうとする主張は初めてではないか、と評した。本人は「私にとって生涯の誇りである」と振り返っている。
2年之后,他的主张与大塚久雄、宇野弘蔵等的论文一起被摘录在《战后日本思想大系之8 经济思想》(筑摩书房)一书中。编者伊东光晴评论道:“以消费者主权为后盾,来提出对厂家的抗衡力的主张是前所末有的。”他本人回顾道:“这对我来说是毕生的骄傲。”
著書の出た69年から全国へ多店舗展開を始め、翌年売り上げ1千億円を突破、72年には小売り売り上げ日本一になった。絶頂期に迷いも生じた中内氏は臨済宗の山田無文師に会った。師の言葉に迷いは消えたという。「社会が必要とするなら、あんたの会社はおのずと残る」(『流通革命は終わらない』日本経済新聞社)
从推出著作的69年起开始向全国的多家店铺推广,第二年销售额突破1千亿日元,在72年时零售营业额成为全日本第一。在鼎盛时期甚至产生了迷惑的中内遇上了临济宗的山田无文大师,据说大师的一番话解消了他的迷惑。“要是社会需要的话,你的公司自然而然地会保留下来。”(『流通革命不会终止』日本経済新聞社)
中内氏、そしてダイエーの歩みを振り返ると、戦後日本の「欲望」の起伏と曲折がまざまざと見えてくる。疲弊して再生の道を探る今の姿に、ひとしお苦みを感じるのはそのせいだろう。
于是,中内回顾了大爱所走过的历程,看清了战后日本的“欲望”之种种起伏曲折。从他现在疲惫地探寻企业再生之道的如今的身影上,感到格外的艰难也是这个原故吧。
薬から始めて、お菓子へと商品を広げた。甘い物の次はすきやきを腹いっぱい食べたい、だ。それに応えた牛肉安売りはダイエー商法に画期をもたらした。戦中、中内氏の戦地での飢えの体験が常に背景にあった。
从药材开始一直到糕点,商品的种类不断扩展。吃了甜食后便想吃许多鸡素烧。与此相应的牛肉贱买是大爱商法上划时代的手笔。因为中内常以在战地的饥饿体验来作为背景。
しかし消費者の欲望は拡大し、拡散していく。自ら引き起こしたはずの「革命」に乗り越えられ、取り残されるという皮肉な運命をたどった。
但是,消费者的欲望在不断地扩大,不断地扩散着。他走向了被自己引发的“革命”所跨越,所甩在后面这样的带有讽刺性的命运。
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臨済宗
禅宗の一派。唐の臨済を祖とする。日本では鎌倉時代に栄西が伝えたのに始まり、室町幕府は京都・鎌倉に五山を定めて保護した。公案によって弟子を教化する看話禅の立場をとる。現在15派に分かれる。
ダイエー創始者
中中内功[なかうちいさお]
大正11年兵庫県神戸市生まれ。ダイエーを流通業界の最大手に一代で築き上げたスーパー王、経団連副会長も務めた。 神戸高等商業(現神戸商科大学)卒業。日本綿花(現ニチメン)に入社。召集されてソ満国境に送られる。フィリピンに転戦。重傷を負うも、終戦後、捕虜となる。復員後、神戸三宮に薬局を設立。医薬品の現金問屋を大阪平野町に設立。大栄薬品工業株式会社(現ダイエー)設立。1957年(昭和32)4月、大阪市千林駅前に「主婦の店ダイエー」第1号店創立。1972年、小売業日本一に。80年、年間売上高1兆円突破。オープンしてから40年で、グループの売上高5兆円規模の小売業に成長させた立志伝中の経営者。規模拡大の強気の経営で小売業界をリードしてきた。徹底した安売り商法で驚異的な売上を伸ばした。その後も、関連企業300社、社員数10万人のCEOとして活躍するも、これまでの拡大路線による巨額の借入金と売上不振による経営危機が表面化。その責任を取る形で、99年1月、社長を辞任、経営の一線を退き、会長職に専念する。2000年10月、代表権返上。小売業売上高1位の座を28年ぶりにセブン―イレブン・ジャパンに譲った。2001年5月には取締役を辞任する予定。創業以来のオーナー支配に終止符を打つ。