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2007年10月15日の「天声人語」

作者:eva_0323  来源:贯通论坛   更新:2007-10-17 8:22:08  点击:  切换到繁體中文

 

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仁孝天皇の皇女和宮(かずのみや)が、大行列で江戸に下ったのは1861年(文久元年)初冬。翌年、15歳で徳川14代将軍家茂(いえもち)に嫁いだ。幕府の権威を保つための政略結婚だったが、和宮は同い年の若将軍と相愛の夫婦になった。

仁孝天皇的皇女和宫,于1861年初中,队伍庞大地迁至江户。于次年15岁时,下嫁于德川家的第14代将军家茂。虽然这是场为了巩固幕府统治而进行的政治联姻,但是和宫却和自己同岁的年轻将军成了恩爱的夫妇。
家茂は長州征伐の陣中で病没する。20歳の亡きがらは、妻がねだった西陣織と共に江戸に戻った。和宮は〈うつせみの唐織衣(からおりごろも)なにかせむ綾(あや)も錦も君ありてこそ〉と泣き崩れたという。

家茂在长州征伐之战中病逝。年仅20岁的遗体与妻子非常钟爱的西阵锦缎一起返回了江户。据说和宫当时哭得悲天动地:“君已不在,徒有唐服绫锦,又有何意?
上野の東京国立博物館で「大徳川展」を見た(12月2日まで)。将軍家のほか、尾張、紀伊、水戸の御三家に伝わる品々には、天皇や公家をも制した武威が宿るかのようだ。東に「落ちる」前の和宮が宮中で着たらしい打ち掛けも、初公開された。

在上野的东京国立博物馆,参观了大德川展会(122日止)。除了将军家的物品外,还出展了尾张、纪伊、水户三大家族的遗世物品,这些文物中都似乎散发着一种天皇和朝臣们的威严气息。同时也亮相了和宫在亡命“东方”前所穿着的宫中长衫。
関ケ原の戦いと明治維新。二つの「乱」に挟まれた2世紀半の太平は、武家文化に余裕と落ち着きをもたらした。徳川宗家の18代当主、徳川恒孝(つねなり)さんは「沈んだ美意識」と表現する。国宝級の刀剣がたたえる輝きは「未使用のすごみ」だろうか

关原之战与明治维新,夹在这二“乱”中的两世纪半的太平,也带来了武家文化的繁荣与稳定。德川宗家第18代当主德川恒孝用没落的美意识来形容这种武家文化。国宝级的刀剑所以能散发出来耀眼的光辉,是因为那股未开封的霸气吗?

格式を重んじる幕府のひざ元では、実を貴ぶ町人文化が開花した。食品や雑貨は、関東の物産より、洗練された上方の品が「下り物」としてあがめられた(中江克己『江戸ことば100選』青春新書)。和宮はさしずめ、究極の下り物ということになる。

在循规蹈矩的幕府统治下,却迎来了重信诚意的街市文化的繁盛。比起关东的物产,京都的食品、杂货等都在做工上极为讲究,而作为“极品”被推崇。(中江克己《江户ことば100选》青春新书)。和宫也终将成为所谓的极品
公家に寺社、武家、大衆、そして舶来と、文化の担い手がそろう江戸期。それらの競い合いや交流に、めりはりの利いた四季が彩りを添えたことだろう。キンモクセイが香る上野公園を帰りながら、日本文化の豊かな根を思った。
 
朝臣、寺庙、武家、舶来品及文化传承者所汇集的江户时代。在多种文化的相互抵触与交流中,这种相互竞争和交流等中,为精彩分呈的四季更添上了色彩。离开丹桂飘香的上野公园之际,我边思索着日本文化的丰富的渊源。

 

下面几句有问题,比较译不好:

1、うつせみの唐織衣(からおりごろも)なにかせむ綾(あや)も錦も君ありてこそ

2実を貴ぶ町人文化

3和宮はさしずめ、究極の下り物ということになる。这句不太理解,按照原文译出后的意思,总觉得还是不太理解,觉得有间接想表达的意思在

4公家寺社、武家、大衆、そして舶来と、文化の担い手がそろう江戸期。是指加上的意思吗?KUWAERU

5、それらの競い合いや交流に、めりはりの利いた四季が彩りを添えたことだろう。这句应该是这么理解的吧?めりはりの利いた四季がそれらの競い合いや交流に、彩りを添えたことだろう


 

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