论坛讨论地址: http://www.kantsuu.com/bbs/dispbbs.asp?boardID=121&ID=53178&page=1 「人は裸足で生まれ、裸足で死んでゆく。その間の生を、靴は共にする」。先週、64歳で亡くなった靴デザイナー高田喜佐さんの『素足が好き』の一節だ。“人光着脚出生,光着脚死去。可这一生却和鞋有着不浅的缘分”。上周,64岁的鞋设计师高田喜佐去世了,这是他的《喜欢光脚》中的一段话。 靴にデザインの概念を持ち込んだはしりで、ブランド「キサ」を設立した。「私の作った靴が、私から離れ歩いてゆく……さまざまな人と出会い、旅をする。涙を流し、笑い、沈黙し、愛を語り、地球の上で、その人と大地をしっかり結んでいる」。思いが詩的にほとばしるのは、母が「おかあさん詩人」の高田敏子さんだったからか。 敏子さんは戦後、普段の暮らしの中の出来事をやさしくつづりつつ人生のきらめきをうたった。「男は毎朝/カミソリでひげをそる/そのとき女は/包丁で野菜を刻んでいる/お互いに刃物を使いながら/刃物を感じないでいる/幸福な朝!」(『砂漠のロバ』)。詩誌「野火」を主宰し、89年に74歳で逝った。敏子歌颂着战后充满各种琐碎小事的普通生活中的人生光彩。“每天清晨/男子用剃刀整理着胡须/ 而女子在用菜刀切着蔬菜/ 都在用着锋利的刀具/ 却并没有感觉到/ 真是幸福的早晨啊!”(《沙漠中的驴》)。她的诗集以“野火”为主题,1989年逝世时享年74岁。 やはり戦後の詩に独自の世界を築いた茨木のり子さんが、79歳で亡くなった。背筋がすっと伸びた潔い言葉の数々は、いつまでも生き続けるに違いない。还有在战后的诗中独树一门的茨木纪子去世于1979年。让人舒展筋骨的勇敢的语言的有许多是会永远留传下去的吧! 茨木さんからはがきを頂いたことがある。終戦直後に流行した「リンゴの唄」の並木路子さんが01年に死去した時、茨木さんの「わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって」という一節を記事に引用した。「あのメロディを聞く度に、戦後の混乱のさまざまがよぎってゆくのを覚えます」我曾经收到过茨木的明信片。战争刚刚结束时流行的《苹果之歌》的作者并木路子2001年去世时,曾经在报道中引用了茨木的“我最漂亮的时候/街道正崩裂”“每一次听到那个旋律的时候都会想起战后混乱的一切都过去了。” 茨木さんは、ようやく訪れた青春の中で聞いたのだろう。そのころ敏子さんは子育てに励み、その懐の内に喜佐さんが居た。 这是茨木正风华正茂的时候听到的吧!那个时候敏子正耐心地哄着孩子,躺在她怀里的便是喜佐了。
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2006年02月22日の「天声人語」
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