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宝塚歌劇団の元トップスター大浦みずきさんは運動神経に恵まれ、駆けっこなら小中学校を通じて1位の記憶しかない。でも不思議なことに、家族はそろって運動音痴だった。
宝冢歌舞剧团的原头号演员大浦水木,运动细胞很强,是赛跑的话从小学到中学总是第一。但是不可思议的是,她的全家都是不擅长运动的。
特に父は瞬発の才に乏しく、運動らしい運動をする姿を見たことがない。この春、79歳で亡くなった詩人の阪田寛夫さんである。いとこで幼時から親しかった作曲家の大中恩(めぐみ)さん(81)も「彼の運動神経には同情した。走るのも投げるのも滑るのも苦手でした」と話す。
尤其是她的父亲,缺乏爆发力,从未见过他做做运动什么的。他就是今年春于79岁逝世的诗人阪田宽先生。与其从小就关系亲密的堂兄即作曲家大中恩先生(81)也说:“我们对他的运动细胞感到同情。跑步、投掷、滑冰都不在行。”
数々の童謡で知られた阪田さんにこんな詩がある。「びりのきもちが わかるかな/みんなのせなかや 足のうら/じぶんの鼻が みえだすと/びりのつらさが ビリビリビリ」(『ばんがれまーち』理論社)。校庭の隅で、自らの鈍足にため息をついた人には、懐かしくも切ない記憶だろう。
因创作了许多的童谣而知名的阪田先生有这样一首诗:最末一名的心情 能了解吧/大家的背 脚背/自己的鼻子 能看出来的话/最末一名的辛苦 最末一名啊最末一名 (引自『』理论社)。对在操场角落,因自己跑得慢而叹气的人而言,难过的记忆吧。(不是很会翻译这句诗,就随便凑合了一下,请原谅。请高手指教)
駆けっこは明治の昔から運動会の花形 だった。競技史に詳しい手島宗太郎さん(71)によると、日本で最初の運動会は明治7年に東京の海軍兵学寮で開かれているが、英国人教官らが決めた種目の大半は「疾駆」ものである。明治11年に米国式で始まった札幌農学校の運動会でも、やはり走力を競う「電奔」が多かった。
赛跑,是明治早期就有的运动会的项目。据详知竞技史的手岛宗太郎先生(71)说,在日本,最初的运动会是明治7年在东京的海军学员宿舍召开的,不过,英国教官们决定的项目的大半是骑马疾跑类的东西。到明治11年按照美式召开的札幌农业中等专科学校的运动会,还是竞争奔跑能力的“疾奔”居多。
明治後半に騎馬戦が流行し、大正期には遊戯が広まる。戦時中には敵機襲来など新競技も生まれた。時代を映す運動会だが、プログラムから駆けっこが消えたことはない。
明治后半期骑马比赛盛行,大正时期作为游戏流传开来。战争期间也产生了敌机来袭等新的竞技项目。是可以反映时代的运动会,但是赛跑从未从项目中消失。
この季節、スタートの号砲を聞くと、何歳になっても胸がしめつけられるという人がいる。最後尾でもがく生徒に、昔のわが身を重ね、ひとりで目頭を熱くしたりする。
这个季节,听到起跑的枪声,多少岁的人也会绷紧心弦。即使是最后一名了仍在坚持的学生,与以前自己的身姿重叠到一起,一个人鼻子就酸起来。