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民主党の新代表に決まった前原誠司氏は、比叡山を東に仰ぐ京都市左京区で育った。卒業した市立修学院小学校のホームページを見ると、校歌は「み空に高き比叡の峰」を歌い、校舎から見た山影が紹介されている。
民主党的新当选代表前原诚司,成长于向东可以仰望比叡山的京都市左京区。从他毕业的京都市立修学院小学校的主页上,看到学校校歌为『比叡之峰高耸入云』,还登有从学校拍摄的比叡山的照片。
比叡山を織田信長が攻めたのは1571年旧暦9月中旬のことだ。僧兵の拠点、延暦寺を焼き払い、僧俗数千人を殺害したという。その比叡山を見て育ったであろう前原氏が最大野党の顔となったことに、信長好きの小泉首相は今どんな思いか。
比叡山被织田信长攻占是1571年旧历9月中旬的事。当时火烧僧兵据点延历寺,杀害了僧侣及俗人数千人。望着这样的比叡山长大的前原先生成为了最大在野党的代表,不知道喜欢织田信长的小泉首相如今会做何感想。
今年ほど首相が信長を頻繁に語ったことはなかった。郵政改革を桶狭間の合戦にたとえ、閣僚には「明智光秀になるな」と念を押した。「私は信長のように非情だと言われるが、戦国武将たちに比べれば自民党の権力闘争なんか生っちょろい」と演説した。信長への思いは学生以来らしいが、このごろは言外に自己陶酔もちらつく。
没有那一年首相说信长说得象今年这样多。将邮政改革比喻成『桶狭间之战』,叮嘱阁僚“不要做明智光秀”。演说中说:“虽然有人说我像信长一样无情,但和战国时代的武将比起来,自民党的权利争斗不过是小儿戏?”好像从学生时代就开始景仰信长了,但到说这话时,景仰之外也隐含些自我陶醉了。
最近の愛読書は『信長の棺』(日本経済新聞社)だ。「首相が解散を決めた一冊」などと大仰な宣伝がされているが、読んで著者の年齢に目がとまった。加藤廣氏75歳。これがデビュー作である。
最近爱读的书是《信长之棺》(日本经济新闻社出版)。该书被宣传成“令首相下决心解散议会”。但看书时视线停留在作者加藤广先生的年龄上,他已经75岁。这是他的处女作。
中小企業金融公庫や山一証券に勤務し、経営評論家として独立した。学生時代に作家を夢見たことはあったが、小説の筆をとったのは65歳からだ。
加藤广先生在中小企业金融公库、山一证券等处工作,成为独立的经营评论家。学生时代就梦想成为作家,但动笔写小说是从65岁开始。
信長が「余はこの国の無能者の掃除人になることに決めた」と語る場面がある。とりつかれたような変革志向に、加藤氏も首相との類似性を見る。政敵一掃を狙うかの観もある首相とどう渡り合うか、民主党を背負う新リーダー43歳の手腕が問われる。
书中有一个场面是信长说:“我决定清除国内的无能之人。”迷恋于改革的志向,可见和加藤先生和首相的类似性。和持有将政敌一扫而光观念的首相如何交锋,担负着民主党未来的新的43岁的领导人采用怎样的手腕,将引人关注。
おだ‐のぶなが 【織田信長】
[(一五三四~一五八二)]戦国・安土桃山時代の武将。信秀の子。桶狭間(おけはざま)に今川義元を討って尾張一国を統一。のち、京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠(ながしの)に破ったのち、安土に築城。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあって自殺。
ひえい‐ざん 【比叡山】
京都市と大津市とにまたがる山。二峰からなり、東の大比叡は標高八四八メートル、西の四明ヶ岳は八三九メートル。天台宗延暦寺がある。
おけはざま‐の‐たたかい 【桶狭間の戦い】
永禄三年(一五六〇)、織田信長の領内桶狭間(愛知県豊明市内)に陣取った今川義元を、信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。
あけち‐みつひで 【明智光秀】
[(一五二八ころ~一五八二)]安土桃山時代の武将。織田信長に仕え、近江(おうみ)坂本城主。天正一〇年(一五八二)京都の本能寺に主君信長を襲って自害させたが、まもなく山崎で羽柴秀吉に敗れ、敗走の途中で農民に殺された。