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2005年08月03日の「天声人語」

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ふるさとへ、あるいは海へ山へ、多くの人が旅をする季節である。しかし、車で移動する人たちは、今年は複雑な思いを抱いているのではないか。日本をつなぐ幹線道路を造ってきた日本道路公団が、公団ぐるみで「官製談合」に関与していた疑いが濃くなっている。

这是很多的人去故乡、或是大海、高山去旅行的季节,但是用车出行的人们今年不会抱有复杂思想吗?修建联结于日本的干线道路的日本道路公团,在整个公团中,有关于“官制串标案”的猜疑变得是越发浓厚了。

 もう一つの「談合」も浮上した。公団と国土交通省が、公団民営化推進委員会の懇談会への、幹部の出席を見送ったという。「事件が捜査中で委員の質問に答えられない」「談合対策で多忙」などと弁明しているようだが、両者間に「欠席談合」があった気配が感じられる。

另一个“串标事件”也是薄开云雾了,据说公团和国土交通省对于出席公团民营化推进委员会的恳谈会的干部进行了送行。好像有这样的辨解:“此事件因搜查中无法回答委员的提问”、“因制定串标对策很忙”等,但是两者间,能够感受到有“缺席商议”的迹象

 本来、推進委員会は、道路をめぐる構造的な問題を、広く深く検討する場のはずである。そこに背を向けるような姿勢をとるのでは、両者に日本の道路の将来を託すことはできない、との思いが強まる。

本来推进委员会应该围绕着道路构造问题广泛而深入进行讨论,(推进委员会)不矛理睬的态度,日本道路的将来无法托付给二者(公团和国土交通省)的这种想法越来越来强了。

 公団が約20年前に刊行した『日本道路公団三十年史』に、終戦直後の道路の状況が記されている。「(昭和)20年度末における我が国の道路総延長は89万9000kmで、このうち舗装されていたのはわずか1・2%である」。戦後しばらくは、どろんこの道も多かった。

公团大约在20年前发行了《日本道路公团三十年史》中记述二战结束后的道路状况,(当中是这样写道):“在昭和20年度末我国的道路总扩展为89万9000KM,此其间铺路仅为1.2%”,战后不久土路(泥巴路)较多。

 昭和21年、民俗学者で歌人の折口信夫が「日本の道路」と題した一文を書いている。「まつ直な道、うねつた道、つゞらをり、光る道、曇る畷道、さうした道の遠望に、幾度魂を誘はれたことか」(『折口信夫全集』中央公論社)。

昭和21年,民俗学者和歌诗人折口信夫写了题为《日本的道路》的一篇短文。(后面的有点不知意思,请高手来点拔)

 人に寄り添っていたはずの道が、国や公団、業界のものになってはなるまい。戦後60年、この国の道を本来の姿につくりかえる時である。

应是与人相关的的道路,不会成为国家、公团、行业界的东西吧,战后60年,是将这个国家的道路改做成本来面貌的时候。


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