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「世界が変わって見えた」。近視の知人から初めてめがねをかけたときの体験を聞いたことがある。「汚いものもよく見えて、少々がっかりもしたけれど」とも。
“世界变样了”。我曾听一个近视眼朋友说起过第一次戴眼镜时的感受。“肮脏的东西也看得清清楚楚了,这到叫人有点沮丧”。
世界像を変えるほどのめがねだが、発明者ははっきりしない。ガラス製造技術が発達した13世紀イタリアだという。14世紀からは絵画にもしばしば登場する。いまでいう老眼鏡、あるいは読書鏡である。当初からいかに着用するかが難題だった。手で支える。鼻にかける。試行錯誤が続いた。
然而这能改变世界形象的神奇的眼镜,到底是谁发明的,却不太清楚。据说是产生于玻璃制造技术发达的13世纪的意大利。从14世纪起,眼镜在绘画作品中也频频亮相。那就是现在所说的老花镜,或读书眼镜。而眼镜的佩戴从一开始就是一个难题。用手举着。架在鼻梁上。走过不少的弯路。
日本には16世紀、宣教師ザビエルが伝えたとされる。舶来品として珍重されたが、大名など特権階級にしか手に入らないものだった。本格的なめがね製造が始まるのは明治に入ってからだ。
一般认为眼镜是在16世纪由传教士沙彼埃尔传入日本的。作为舶来品在当时非常稀罕,只有大名等特权阶层的人才能弄得到。正式开始眼镜的制造已是进入明治时代的事了。
いま日本のめがね人口は5千万とも6千万ともいわれる。国民の半数近くがめがねの世話になっている。アジアの難民らにめがねを贈る活動を続けてきた富士メガネが、第1回「朝日企業市民賞」に決まった。世界には、めがねがなくて不自由な思いをしている人が少なくないことを教えられる。
据说现在日本的眼镜人口竟有5千万、6千万之多。将近有一半的国民都到眼镜的关照。长年向亚洲的难民们赠送眼镜的富士眼镜,当选了第一届的“朝日企业市民奖”。由此可知,在全世界,没有了眼镜就会觉得不方便的人也不在少数。
愛知県知多市の大智院は「めがね弘法」として知られる。目の不自由な人が弘法大師像に祈願したところ、目が見えるようになった。代わりに像の左目が傷ついたため、めがねがかけられたという。毎年10月末に「めがね供養」が営まれ、集まっためがねはスリランカの恵まれない人たちに贈られる。
爱知县知多市的大智院素以“眼镜弘法”而闻名。据说曾有一位眼睛不好的人拜了拜弘法大师的像,就眼目清亮了。然而,由于像的左眼有伤,就给戴上了眼镜。每年的10月底都要举行 “眼镜供奉 ”的活动,将筹集到的眼镜送给斯里兰卡的不幸的人们。
〈あたらしく玉取換へし眼鏡にて仰げば空の春の星青し〉宮柊二。秋の高い空ならどうだろうか。めがねを通して世界のいまが見えてくることもある。
“新换镜片仰望中,春日星空蓝”宫柊二。那么,要是秋高气爽的天空看起来又会怎样呢?通过眼镜也看得到世界的现状。
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1)大智院のめがね弘法
めがね弘法の名で名高い大智院は、知多市南粕谷本町にあります。このお寺は、元亀三年(一五七二)以前の開創と伝えられており、お寺には、秘仏の聖観世音菩薩やその脇仏の地蔵菩薩・釈迦十六善神像(市指定文化財)などが祭られています。
その中に、「めがね弘法さん」と呼ばれている一体の木彫りの座像があります。この像は、弘法大師(空海上人)がこのお寺に立ち寄った際、大師自身が自分の像を彫って寺に残していったもので、身代わり大師の像として伝えられています。そしてこの大師像には、次のような話が伝わっています。
今から百五十年ほど前の安政年間のころ、お寺に四国から来たというおじいさんが訪ねてきました。おじいさんの眼鏡は、すすでガラスを黒くしてありました.おじいさんは、「私は眼病を患い、不自由な身になってしまいました。そこで願をかけ、全国各地の霊場を旅して回っているのです」と住職に話しました。
そこで、住職は大師の像におすがりするよう勧めました。すると、うそのように病気は治ってしまいました。代わりに大師の像の左目に傷がついていました。大師の像に今もかかっている眼鏡は、そのときのおじいさんが寄進した眼鏡だそうです。それで、この像は「めがね弘法」と呼ばれるようになったということです。毎月第二日曜日には、「めがね弘法」の縁日が行われます。また、十月の第四日曜日の大祭には、先見粥がふるまわれます。
めがね弘法大師像
2)宮 柊二(みや・しゅうじ/1912~1986)
新潟県生まれ。歌人。
北原白秋の秘書を務める。
著作『多く夜の歌』『独石馬』『埋没の精神』他