贯通会员翻译讨论作品,仅供参考,如果想参与讨论请登陆论坛天声人语版块。
http://www.kantsuu.com/bbs/list.asp?boardid=121
こんなところで切ったらあかんがな、なに?地震?――そのまま電話は不通になった。1923年9月1日正午ごろ、山本権兵衛内閣の組閣の原稿を東京から電話で受けていた大阪朝日新聞でのことだ。
这样的情况下切断了是怎么回事呢?地震?— 电话一直打不痛。1923年9月1日正午时分,山本权兵卫内阁的组阁的原稿从东京通过电话传到了大阪的朝日新闻。
通信途絶の中、最初の情報は鉄道関係からだった。「東海道沼津付近を中心として近来稀有(けう)の強震」があり、特急が立ち往生した、との号外を出したのが午後2時である。
通信中断的时候,最早的情报应该与铁路有关。有「以东海道沼津附近为中心发生了近年来少有的特强地震」这样的新闻,特快陷入僵局,只得以号外形式于下午2点出版。
軍は情報を持っているだろう、と取材したが「連絡がつかんで困っている。朝日さん何か情報はないか」。夕方、横浜港に停泊中の船からの無電で、大規模地震であることを知った。さらに詳しい情報を伝えたのは、その船から神奈川県の警察部長が大阪、兵庫県知事と大阪朝日にあてた無電だった。夜9時すぎである。
军方大概有消息而取材的「单靠联络是不行的。朝日什么信息都没有」。傍晚,由于在横滨港所停泊的船上的无线电中,得知了那里爆发了大规模的地震。穿来更为具体的消息是,从船上,神奈川县的警察部长,大阪,兵库县的首长以及大阪的朝日所发送来的消息。那时已经晚上9点多了。
社屋が焼失した東京の記者は惨状を伝えるため次々大阪に向かった。車で出発した3人は、橋が落ちていた相模川を泳いで渡った。あとは徒歩である。「君は速く歩きすぎるよ」「弥次喜多じゃあるまいし、急ぐのは当たり前じゃないか」。空腹と疲れで口論しながらの旅だった。途中から汽車に乗り、4日朝、大阪朝日に着いた。持参した写真は号外に掲載された。
公司被烧掉的东京的记者由于要报道惨状陆续来到了大阪。坐车出发的3人,落入桥下,游泳渡过了相模河。然后步行。「你的速度太快了」「又不是弥次多喜,用的着那么快吗?」。旅途中饥饿,劳累以及不停地争论。途中乘上了车,4天后的早晨,到了大阪朝日。带去的照片被刊登在了号外上。
関東大震災はメディアの世界にも衝撃を与えた。情報過疎の中、流言から朝鮮人虐殺事件が起きるなど深刻な課題も突きつけられた。震災後、ラジオへの関心が高まり、2年後の放送開始につながった。
关东大地震,给予传媒界很大的冲击。信息过少的情况下,从流言中传来的发生朝鲜人虐杀事件的深刻的课题被放在眼前。地震灾难之后,提高了对广播的关心,关系到2年后开始的广播放送。
通信技術が格段に発達した今日、「隔世の感」との思いもするが、過信こそ最も危険、という教訓を忘れてはならないだろう。
通信技术高度发达的今天,有时想体验「与世隔绝的感觉」,可过于相信是最危险的,这样的教训不能忘记啊!