「これや少し擽ったいな。こんな家庭があるだろうか。おや、おや、俺の思索はどうしてこんなに乱れるだろう。題目はこんなに好いのだが出来そうも無さそうだ。
そこでと、特に留学生と規めることもないだろう。国内で高等教育を受けた者でもいい。彼等は大学の卒業生だ。高尚で優美で、高尚で……。男は文学者だし、女も文学者だ。あるいは文学の崇拝者でもいい。また、女は詩人で、男は詩人崇拝家、フェミニスト、あるいは……」
堪え切れなくなって彼はふり返ってみた。すると、彼の背後の本棚の脇には已に一山の白菜置場が出現している。下層は三株、真中が二株、上が一株で、彼に向ってはなはだ大きなA字を畳み上げている。
「ああ!」
彼は驚きの歎息を発した。それと同時に顔が熱くなって、脊骨をたくさんの針にでも刺されるように感じた。「ウウウ……」と彼は永い息を吐いて、脊骨の針を除こうと思いながら、それでも考え続けるのだった。「幸福な家庭」の部屋は広いし、それに物置もあることだろうから、白菜みたいな物はそっちの方にやっておくさ。主人公の書斎は別に一間あって、壁は一面の書棚で埋っているから、その附近にはもちろん、白菜なぞは積んで置かれはしない。書棚には支那の書物、外国の書物、例の『理想の良人』もある訳だな。――上下二冊揃だ。寝室がまた一間あって、真鍮のベッドかな。それとも質素を旨として第一監獄工場で作った楡の木のベッドでもいいが。ベッドの下は非常に清潔だ……」
彼は自分のベッドの下に眼を呉れると、薪はもう使い切らして、縄が一本、死んだ蛇のように物憂く横たわっている。
「二十三斤半……」
彼が薪がまもなくベッドの下に行水の流れは絶えず進んで来るのを予想すると頭の中がまたガサガサになって入口へ行って門を締めようと思った。しかし両手を門に掛けると、すぐに、これは少し気短かに過ぎると感じて、出しかけた手を引込め、埃のたくさん溜った布簾を放下した。こういう風だと自己を守って閉じ籠るほどの強情もなく、また門戸を開放する不安もないのだから、これこそはなはだ「中庸の道」に合するものだと思ってもみた。
「……だから主人公の書斎のドアは、とこしえに締めておくものだ」
彼は席に戻って来て腰を下した。
「用事があって相談したいなら、まずドアをノックして、許可を得てから入って来る。この方法は実際いい。たとい主人公が自分の部屋に坐して主婦が来て文芸の話をするにもせよ、まず第一にドアがノックされねばならぬ。――こういう風なら安心していられる。彼女が白菜なぞを抱え込んで来るはずがないのだから
『Come in, please my dear.』
しかしだ。主人公が文芸なぞを語っている閑がない時にはどうしたものだろう。いっそ放ったらかしておくか。彼女が外に立って、いつまでもドンドン叩いていたら? そんなことはまずまず出来ないことだ。そういうことは、ひょっとすると、『理想の良人』の中に出ているかもしれない。あれはたしかにいい小説に違いない。今度原稿料が入ったら一冊買ってみてやろう……」
ピシャリ!
彼の腰ッ骨は、ピンとなった。と云うのもこれまでの経験で、このピシャリの音は、妻が三つになる女の子の頭をひっぱたく音だからだ。
「幸福な家庭……」彼は子供のしゃくり上げる声を聞きつけた。
彼はまだ腰をピンとさせたまま考えていた。
「子供は遅く出来るものは遅く出来るが、あるいはいっそない方がいいのかもしれない。二人でキレイさっぱりと――あるいはいっそ下宿住まいをする方がいいのかもしれない、あとは何もかもあいつ等に請負わせて、自分一人でキレイさっぱりと」
啜り泣きの声がますます大きくなってきたので、彼はまたも立上り、門幕を潜り出て、「マルクスは子供の泣声の中でも、資本論を書き上げたから彼は偉人である……」と、考えながら、外に出て風除けの戸を開けると、石油の匂いがぷんとした。子供は門の右辺に横たわって顔を地面に向けていたが、彼の顔を見るとわっと泣き出した。
「おお、よしよし。泣くでないぞ泣くでないぞ。好い子だ」
と、彼は腰を曲げて女の子を抱いた。
彼が子供を抱いて行こうとすると、門の左の所には妻が立っていて、腰骨を真直ぐにして両手を腰に置き、怒気憤々としてさながら体操の操練でも始めそうな勢。
「あなたまでもわたしを馬鹿にするんだね。人の仕事の手伝いもしないで、邪魔するだけだ。――その上、洋灯をひっくりかえしったら晩には何を点けるんです?……」
「おお、よしよし、泣くでないぞ泣くでないぞ」
彼は顫え声を跡に残して子供を部屋に抱き入れ、頭を撫でて「好い子だ好い子だ」といいながら下へ卸し、椅子を引寄せて子供を両膝の間に置いて坐し、手を上げて言った。「泣くでないぞ、好い子だから、お父さんはね、猫が顔を洗うところを見せてやるぞ」と、彼は首を伸してペロリと舌を出し、手の掌を離して二度ばかり空を舐めて、その手で自分の顔の上に円を描いてみせた。
「あ、ははは、乞食」
子供はすぐに笑い出した。
「そうそう、乞食だ」
彼はまたしてもいくつも円を描いてようやく手を休めてみると、子供はにこにこ笑いながら、涙に濡れている眼で彼を見ている。何んと云う可愛らしい、天真な顔だろうと彼は思った。ちょうど五年ばかり前、この子の母親の脣がこんなに真紅だったが、これはその縮少だと思えばいいだろう。あの時は晴れ渡った冬の日で、彼女は、俺がどんな障害にも反抗し、彼女のためであったなら甘んじて犠牲になると云うのを聴いて、この通りに莞爾と笑いながら、涙で一杯になった眼で俺を見たのではなかったか。彼はぼんやりして、そこに坐ったまま、少しは醉い心地になった。
「ああ、可愛い脣……」
と、彼は思いに耽っていた。
突然だった。カーテンが開かれて、薪が運ばれて来た。彼はハッとした。子供はまだ涙で一杯になった眼で、真紅な脣を開いたまま彼を見ている。
「脣……」
彼が側に眼を呉れた時は、薪はもう運ばれていた。「……おそらくは将来これもまた五五の二五、九九八十一にでもなるんだろう! 二つの眼玉を気味悪く光らせて……」彼はこう思いながら、表題だけ書いた原稿用紙と計算の数字を書いた原稿用紙を手荒く引張り出し、それを揉苦茶にしてまた引き延ばし、子供の涙や鼻涕を拭き取った。
「好い子だから向うへ行って一人でお遊び」
彼は子供を推しのけながら、紙を丸めて力任せに紙屑籠の中に抛り込んだ。
彼は子供にも、フイと飽き足らなくなったが、重ねてまた振返えると子供がヨチヨチ部屋を出て行くのを見た。耳には木ッ端の音を聞きながら。
彼は気を落著けようとして眼を閉じ、雑念を拒止して心を落著けて腰を下した。彼は一つのひらたい丸い黒い花が、黄橙の心をなして浮き出し左眼の左角から漂うて右に到って消え失せた。続いて一つの明緑花と黒緑色の心と、続いて六株の白菜の積荷がきッぱりと彼に向ってはなはだ大きなA字を形成した。
(一九二四年三月十八日)
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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