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【中日对照】《墳》題記/《坟》题记(鲁迅)

作者:收藏  来源:本站原创   更新:2016-7-6 17:35:23  点击:  切换到繁體中文

 

題記


これらの体裁の全然ちがったものを集めて一冊の本にしたのは、別に堂々たる理由があったわけではない。最初は二十年前に書いたいわゆる文章を偶然幾つか見つけたためである。これが私の書いたものなのだろうか、と私は思った。見てゆくと、確かに私が書いたもののようでもある。それは雑誌『河南』(河南省出身在日留学生の機関紙)に寄稿したものである。その編集者には奇妙な癖があって、文章の長いのを欲しがり、長いほど原稿料を沢山くれた。そのため『摩羅詩力説(まらしりきせつ)』(悪魔派詩人論)のような具合に、まるで無理に寄せ集めたものが出来上がったのである。近年だったら、多分あんな風には書くまい。その上、好んで奇怪な文句を作り、古字を使っている。これは当時の『民報』(章太炎が日本で発行していた革命鼓吹の新聞)の影響を受けたのである。いま印刷の便宜上から、少し改めたが、その他は元のままにしておいた。こんな生硬なものは、もしもこれが他人のものだったら、私は多分その人に「割愛」するよう忠告したにちがいない。ところが自分のこととなるとやはりこれを残しておきたくなる。それに「行年五十にして四十九の非を知る」というが、年をとるとともにますます進歩するというようには、なかなかゆかぬものである。この文章の中でふれている詩人たちについては、今もって誰も取り上げようとしない。このこともこの旧稿を捨てるに忍びなくさせた一つの小さな原因である。彼らの名は、以前はどんなにか私を激昂させたことであろう。民国成立以後、私はすっかり彼らを忘れてしまった。ところが意外にも今日になって、彼らは又も時々私の眼前に立ち現れるのだ。


その次には、むろん、読みたいという人がまだあるためである。いや、それよりも特に、私の文章を憎んでいる人があるためである。話をして、誰かに嫌われるのは、全然手応えのないよりは、幸福である。世の中には愉快でない人々が沢山いる。ところがある人々は一意専心、自分のために愉快な世界を造ろうとつとめている。それはそう都合よくさせてやるわけにはゆかぬ。彼らの眼の前に少しは憎らしいものを置いてやって、時には少し不愉快な目にあわせてやり、自分の世界も完全無欠にはなかなかならぬものだということを、思い知らせてやりたい。蝿は、自分が人に憎まれていることを知らないので、うるさく飛び廻る。しかし私は十分それを知っていて、いやしくも飛び廻れる限りは、わざとうるさく飛び廻ってやろうと思うのだ。自分の憎らしいことは、時には自分でも感じている。しかし私が自分の生命を延ばそうと思って、酒をやめたり、肝油を飲んだりするのは、必ずしも私の愛人のためにするのではなく、むしろ大半は私の敵――彼らに少し体裁のよい言い方をして、敵といっておこう――のために、彼の結構な世界に少しばかり欠陥を残してやりたいと思うからなのだ。君子の徒はいう。お前はなぜまばたき一つせずに人を殺す軍閥を罵らないのか。それこそ卑怯というものではないか! と。だが私はそんな誘殺手段のワナにかかろうとは思わない。木皮道人(もくひどうじん)(明末清初の賈鳥西、明亡びてのち、『木皮散人鼓詞』を作り、悲憤の情を託した)はいみじくも言っている。「幾年も軟い刀で頭を切られ死を覚えない」と。私はほかの「無鎗階級」(鉄砲を持たぬ階級)と自称しながら、実は軟らかい刀を持った妖魔どもを、もっぱら攻撃しようとしているのだ。上に引いた君子の徒の言葉ごときは、てっきりその軟らかい刀に外ならぬ。からいに筆禍に遭ったとすれば、彼らは君を烈士として尊敬するだろうか。いなである。その時はまたさんざん冷評を浴びせ掛けるにきまっている。うそだと思ったら、彼らがあの三・一八事件(一九二六年三月十八日、外交請願の学生団が北京の国務院執政府前で衛兵の発砲を受け、五十余名の惨死者を出した事件)で惨殺された青年をどのように評論したか、見るがいい。


この外に、私自身にとって、なお小さな意義がある。それは、ともかくこれは生活の一部分の痕跡だということである。だから、過去はもはや過去であって、魂を追いかけるわけにはゆかぬとはっきりわかってはいるけれども、そうきっぱりと手を切ることも出来ない。なおも糟粕を集めて、小さな新墳をつくり、それを埋めると同時に、名残りを惜しもうと思うのである。遠からずして踏まれて平地となったとしても、ちっとも苦にはしない。苦にしたところではじまるまい。


私は何人かの友人が、私に代って蒐集(しゅうしゅう)し、筆写し、校正して、それぞれ取り返しのつかぬ多くの光陰をついやして下さったことを、心から感謝する。私の返礼は、この本が印刷装幀成った時、それぞれの人のまごころからの愉快な一笑を博することが出来ればと、せめてそれのみを希望することである。それ以外に贅沢な望みはない。せいぜい、この本が、大道露店に積みかさねられた本の中に、暫くでも横たわることができればと願う。ちょうど博厚なる大地が、どんな小さな土くれをも容(い)れるのにやぶさかではないように。さらに一歩を進めると、もっともこれはいささか分に過ぎた望みであるが、中国人の思想や趣味は、幸い今のところ、まだいわゆる正人君子(自ら正義派の君子人をもって任じ他人に対して厳格な人々をいう)に統一されてはいないのだから、たとえば専ら皇陵(みささぎ)を拝むことのすきな人もあろうが、なかには荒れ果てた塚をとぶらって昔を偲ぶことを好む人もいるわけで、いずれにしても、まだ当分は一顧を惜しまぬ人も多分いるだろうと思われる。せめてそうであってくれれば、私としてはこの上もなく満足である。その満足は富豪のお嬢さんを奥さんに貰う(論敵陳源が凌叔華と結婚したことを皮肉ったものか)のに決して劣りはしないだろうと思うのである。


一九二六年十月三十日大風の夜、


厦門にて記す 魯迅




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