朝、静坐(せいざ)していると、陳老五が飯を運んで来た。野菜が一皿、蒸魚(むしうお)が一皿。この魚の眼玉は白くて硬く、口をぱくりと開けて、それがちょうど人を食いたいと思っている人達のようだ。箸をつけてみると、つるつるぬらぬらして魚かしらん、人かしらん。そこではらわたぐるみそっくり吐き出した。
「老五、アニキにそう言ってくれ。乃公は気がくさくさして堪らんから庭内を歩こうと思う」
老五は返事もせずに出て行ったが、すぐに帰って来て門を開けた。
わたしは身動きもせずに彼等の手配を研究した。彼等は放すはずはない。果してアニキは一人のおやじを引張って来てぶらぶら歩いて来た。彼の眼には気味悪い光が満ち、わたしの看破りを恐れるように、ひたすら頭を下げて地に向い、眼鏡の横べりからチラリとわたしを眺めた。アニキは言った。
「お前、きょうはだいぶいいようだね」
「はい」
「きょうは何先生(かせんせい)に来ていただいたから、見てもらいな」
「ああそうですか」
実際わたしはこの親爺が首斬(くびきり)役であるのを知らずにいるものか。脈を見るのをつけたりにして肉付を量り、その手柄で一分の肉の分配にあずかろうというのだ。乃公はもう恐れはしない。肉こそ食わぬが、胆魂(きもたま)はお前達よりよっぽど太いぞ。二つの拳固を差出して彼がどんな風に仕事をするか見てやろう。親爺は坐っていながら眼を閉じて、しばらくはさすってみたり、またぽかんと眺めてみたり、そうして鬼の眼玉を剥き出し
「あんまりいろんな事を考えちゃいけません。静かにしているとじきに好くなります」
早上,我静坐了一会。陈老五送进饭来,一碗菜,一碗蒸鱼;这鱼的眼睛,白而且硬,张着嘴,同那一伙想吃人的人一样。吃了几筷,滑溜溜的不知是鱼是人,便把他兜肚连肠的吐出。
我说“老五,对大哥说,我闷得慌,想到园里走走。”老五不答应,走了;停一会,可就来开了门。
我也不动,研究他们如何摆布我;知道他们一定不肯放松。果然!我大哥引了一个老头子,慢慢走来;他满眼凶光,怕我看出,只是低头向着地,从眼镜横边暗暗看我。大哥说,“今天你仿佛很好。”我说“是的。”大哥说,“今天请何先生来,给你诊一诊。”我说“可以!”其实我岂不知道这老头子是刽子手扮的!无非借了看脉这名目,揣一揣肥瘠:因这功劳,也分一片肉吃。我也不怕;虽然不吃人,胆子却比他们还壮。伸出两个拳头,看他如何下手。老头子坐着,闭了眼睛,摸了好一会,呆了好一会;便张开他鬼眼睛说,“不要乱想。静静的养几天,就好了。”
フン、あんまりいろんな事を考えちゃいけません、静かにしていると肥りまさあ! 彼等は余計に食べるんだからいいようなものの乃公には何のいいことがある。じきに「好くなります」もないもんだ。この大勢の人達は人を食おうと思って陰(かげ)になり陽(ひなた)になり、小盾になるべき方法を考えて、なかなか手取早く片附けてしまわない、本当にお笑草(わらいぐさ)だ。乃公は我慢しきれなくなって大声上げて笑い出し、すこぶる愉快になった。自分はよく知っている。この笑声の中には義勇と正気がある。親爺とアニキは顔色を失った。乃公の勇気と正気のために鎮圧されたんだ。
だがこの勇気があるために彼等はますます乃公を食いたく思う。つまり勇気に肖(あやか)りたいのだ。親爺は門を跨いで出ると遠くも行かぬうちに「早く食べてしまいましょう」と小声で言った。アニキは合点した。さてはお前が元なんだ。この一大発見は意外のようだが決して意外ではない。仲間を集めて乃公を食おうとするのは、とりもなおさず乃公のアニキだ。
人を食うのは乃公のアニキだ!
乃公は人食(ひとくい)の兄弟だ!
乃公自身は人に食われるのだが、それでもやっぱり人食の兄弟だ!
不要乱想,静静的养!养肥了,他们是自然可以多吃;我有什么好处,怎么会“好了”?他们这群人,又想吃人,又是鬼鬼祟祟,想法子遮掩,不敢直接下手,真要令我笑死。我忍不住,便放声大笑起来,十分快活。自己晓得这笑声里面,有的是义勇和正气。老头子和大哥,都失了色,被我这勇气正气镇压住了。
但是我越有勇气,他们便越想吃我,沾光一点这勇气。老头子跨出门,走不多远,便低声对大哥说道,“赶紧吃罢!”大哥点点头。原来也有你!这一件大发见,虽似意外,也在意中:合伙吃我的人,便是我的哥哥!
吃人的是我哥哥!
我是吃人的人的兄弟!
我自己被人吃了,可仍然是吃人的人的兄弟!
五
この幾日の間は一歩退いて考えてみた。たといあの親爺が首斬役でなく、本当の医者であってもやはり人食人間だ。彼等の祖師|李時珍(りじちん)が作った「本草(ほんそう)何とか」を見ると人間は煎じて食うべしと明かに書いてある。彼はそれでも人肉を食わぬと言うことが説き得ようか。
家(うち)のアニキと来ては、全くそう言われても仕方がない。彼は本の講義をした時、あの口からじかに「子(こ)を易(か)へて而(しか)して食(くら)ふ」と言ったことがある。また一度、偶然ある好からぬ者に対して議論をしたことがある。その時の話に、彼は殺されるのが当然で、まさにその肉を食(くら)いその皮に寝(い)ぬべしと言った。当時わたしはまだ小さかったが、しばらくの間胸がドキドキしていた。先日|狼村(ろうそん)の小作人が来て、肝を食べた話をすると、彼は格別驚きもせずに絶えず首を揺り動(うご)していた。そら見たことか、おお根が残酷だ。「子(こ)を易(か)へて而(しか)して食(くら)ふ」がよいことなら、どんなものでも皆|易(か)えられる。どんな人でも皆食い得られる。わたしは彼の講義を迂濶に聞いていたが、今あの時のことを考えてみると、彼の口端には人間の脂がついていて、腹の中には人を食いたいと思う心がハチ切れるばかりだ。
这几天是退一步想:假使那老头子不是刽子手扮的,真是医生,也仍然是吃人的人。他们的祖师李时珍写的“本草什么”上,明明写着人肉可以煎吃;他还能说自己不吃人么?
至于我家大哥,也毫不冤枉他。他对我讲书的时候,亲口说过可以“易子而食”;又一回偶然议论起一个不好的人,他便说不但该杀,还当“食肉寝皮”。我那时年纪还小,心跳了好半天。前天狼子村佃户来说吃心肝的事,他也毫不奇怪,不住的点头。可见心思是同从前一样狠。既然可以“易子而食”,便什么都易得,什么人都吃得。我从前单听他讲道理,也胡涂过去;现在晓得他讲道理的时候,不但唇边还抹着人油,而且心里满装着吃人的意思。