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战国武将的辞世之句,谁帮我翻译一下呢

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Pages :[1]  共 10 楼
#1 作者:看我的口型 2005-10-14 15:34:00)

战国武将的辞世之句,谁帮我翻译一下呢
朝倉義景(あさくら よしかげ) 1533~1573

七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空


足利義輝(あしかが よしてる) 1536~1563

五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで


尼子勝久(あまご かつひさ)  1553~1578

都渡劃断す千差の道 南北西本郷に達す


天野隆良(あまの たかよし)    ? ~1551

不来不去、無死無生、今日雲晴れて 峰頭月明らかなり


伊香賀隆正(いかが たかまさ)   ? ~1555

思いきや千年をかけし山松の 朽ちぬるときを君に見んとは


石川五右衛門(いしかわ ごえもん) ? ~1594

石川や浜の真砂子はつくるとも 世に盗人の種はつくまじ


石田三成(いしだ みつなり)  1560~1600

筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり


上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530~1578

極楽も地獄もともに有明の 月ぞこころにかかる月かな
四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒


宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 1572~1655

み菩薩の種を植えけんこの寺へ みどりの松の一あらぬ限りは


大内晴持(おおうち はるもち) 1524~1543

大内を出にし雲の身なれども 出雲の浦の藻屑とぞなる


大内義隆(おおうち よしたか) 1507~1551

さかならぬきみのうき名を留めをき 世にうらめしき春のうら波
討人も討るゝ人も諸共に 如露亦如電応作如是観


大内義長(おおうち よしなが)   ? ~1557

誘ふとてなにか恨みん時きては 嵐のほかに花もこそ散れ


大嶋澄月(おおしま すみつき)   ? ~1565

澄む月の暫し雲には隠るとも 己が光は照らさゞらめや


大嶋照屋(おおしま てるいえ)   ? ~1565

仮初めの雲隠れとは思へ共 惜しむ習ひそ在明の月


太田隆通(おおた たかみち)    ? ~1551

秋風の至り至らぬ山陰に 残る紅葉も散らずやはある


大谷吉継(おおたに よしつぐ)   ? ~1600

契りあれば六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも


岡部隆豊(おかべ たかとよ)    ? ~1551

白露の消えゆく秋の名残とや しばしは残る末の松風


岡谷隆秀(おかや たかひで)    ? ~1551

時有りて自から至り時有りて又還る 清風水を度り明月天に在り


織田信孝(おだ のぶたか)   1558~1583

むかしより主をうつみの野間なれば むくいを待てや羽柴筑前


小幡義実(おばた よしざね)    ? ~1551

宝剣を呑却して名弓を放下す 只斯の景のみ有り一陣の清風
#2 作者:看我的口型 2005-10-14 15:36:00)


垣並房清(かきなみ ふさきよ)   ? ~1555

勝敗の迹を論ずること莫かれ、人我暫時の情、一物不生の地、山寒うして海水清し


蒲生氏郷(がもう うじさと)  1556~1595

限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ


蒲生大膳(がもう だいぜん)    ? ~1600

まてしばし我ぞ渉りて三瀬川 浅み深みも君に知らせん


吉川経家(きっかわ つねい? 1547~1581

武夫の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖なるらん


?川隆像(くろかわ たかかた)   ? ~1551

夢亦是夢、空猶是空、不来不去 端的の中に在り


?田孝高(くろだ よしたか)  1546~1604

おもひおく言の葉なくてつひに行く 道はまよはじなるにまかせて


斎藤道三(さいとう どうさん) 1494~1556

捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ


斎藤義龍(さいとう よしたつ) 1527~1561

三十餘歳 守護人天 刹那一句 佛祖不傳


佐久間盛政(さくま もりまさ) 1554~1583

世の中をめぐりもはてぬ小車は 火宅のかどをいづるなりけり


佐々成政(さっさ なりまさ)  1539~1588

この頃の厄妄想を入れ置きし 鉄袋今破るなり


柴田勝家(しばた かついえ)  1522~1583

夏の夜の夢路はかなきあとの名を 雲井にあげよ山ほととぎす


島津歳久(しまづ としひさ)  1537~1592

晴蓑めかたまのありかを人とは々 いさ白雲の上もしられず


島津義弘(しまづ よしひろ)  1535~1619

春秋の花も紅葉もとどまらず 人も空しき関路なりけり


清水宗治(しみず むねはる)  1537~1582

浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して


少弐政資(しょうに まさすけ) 1441~1497

花ぞ散る思へば風の科ならず 時至りぬる春の夕暮
善しやただみだせる人のとがにあらじ 時至れると思ひけるかな


陶 晴賢(すえ はるかた)   1521~1555

なにを惜しみなにを恨まんもとよりも このありさまの定まれる身に


諏訪頼重(すわ よりしげ)   1516~1542

おのづから枯れ果てにけり草の葉の 主あらばこそ又も結ばめ
#3 作者:看我的口型 2005-10-14 15:38:00)


高橋紹运(たかはし じょううん)1548~1586 流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ 雲ゐの空に名をとゞむべき 武田勝頼(たけだ かつより)  1546~1582 朧なる月もほのかに雲かすみ 晴れてゆくへの西の山の端 武田信玄(たけだ しんげん)  1521~1573 大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流 立花道雪(たちばな どうせつ) 1513~1585 異方に心ひくなよ豊国の 鉄の弓末に世はなりぬとも 伊達政宗(だて まさむね)   1567~1636 曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く 豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ) 1568~1595 月花を心のままに見つくしぬ なにか浮き世に思ひ残さむ 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1536~1598 つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ 長野業盛(ながの なりもり)  1546~1563 春風に梅も桜も散りはてて 名のみ残れる箕輪の山里 二条良豊(にじょう よしとよ) 1536~1551 秋風や真葛原に吹き荒れて 恨みぞ残る雲の上まで 祢宜右信(ねぎ みぎのぶ)     ? ~1551 風荒み跡なき露の草の原 散り残る花もいくほどの世ぞ

平塚為広(ひらつか ためひろ)   ? ~1600 名のためにすつる命は惜しからじ つひにとまらぬうき世と思へば 別所友之(べっしょ ともゆき) 1560~1580 命をもおしまざりけり梓弓 すゑの世までも名の残れとて 別所長治(べっしょ ながはる) 1558~1580 今はただ恨みもあらじ諸人の いのちに代はるわが身と思へば 別所治忠(べっしょ はるただ)  ? ~1580 君なくば憂き身の命何かせむ 残りて甲斐の有る世なりとも 北条氏照(ほうじょう うじてる)   ? ~1590 天地の清き中より生れきて もとのすみかにかえるべらなり 北条氏政(ほうじょう うじまさ) 1538~1590 吹くとふく風な恨みそ花の春 もみぢの残る秋あればこそ雨雲のおほへる月も胸の霧も はらたにけりな秋の夕風 細川高国(ほそかわ たかくに) 1484~1531 絵にうつし石を作りし海山を のちの世までも目かれずや見ん なしといひありと又いふことの葉や 法のまことの心なるらん 三浦義同(みうら よしあつ)    ? ~1516 討つ者も討たるる者も土器よ くだけて後はもとの塊(つちくれ) 三浦義意(みうら よしおき)    ? ~1516 君が代は千代に八千代もよしやただ うつつのうちの夢のたはぶれ 右田隆次(みぎた たかつぐ)    ? ~1551 末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは 三原紹心(みはら じょうしん)   ? ~1586 うつ太刀のかねのひゞきは久かたの 天津空にも聞えあぐべき 三好長治(みよし ながはる)  1553~1577 三好野の梢の雪と散る花を 長治とやは人のいふらむ 三好義賢(みよし よしかた)  1527~1562 草枯らす霜又今朝の日に消えて 報のほどは終にのがれず 毛利元就(もうり もとなり)  1497~1571 友を得て猶ぞうれしき桜花 昨日にかはるけふの色香は をしむ夜の月は入ても鷲の山 雲よりたかき名やはかくるる 山崎隆方(やまざき たかかた)  ? ~1555 ありと聞きなしと思うも迷いなり 迷いなければ悟りさえなき 冷泉隆豊(れいぜい たかとよ) 1513~1551 みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず お市の方(おいちのかた)  ? ~1583 さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 別れをさそふ郭公(ほととぎす)かな 千 利休(せんの りきゅう) 1522~1591 ひっさぐる我が得具足の一つ太刀 今此時ぞ天に抛つ 細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ) 1563~1600 ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ

#4 作者:toyotomi 2005-10-15 23:40:00)


只会几个有名的:

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1536~1598 つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ

随露珠凋零,随露珠消逝,此即吾身。大阪的往事,宛如梦中之梦

上杉謙信(うえすぎ けんしん) 1530~1578 極楽も地獄もともに有明の 月ぞこころにかかる月かな四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒

一期荣华一杯酒,四十九年一睡间;生不知死亦不知,岁月只是如梦中。

织田信长:人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。

人间五十年,与天相比,不过梦幻似水。任人生一度,放眼天下,海天之内,岂有长生不灭者。

#5 作者:muliyo 2005-10-16 9:03:00)


織田信長那段《人間五十年》是敦盛的词阿,不过他好像很爱唱……

#6 作者:eva_0323 2005-10-16 9:48:00)


几乎都没见过啊~~帮顶~想学知识的说~

#7 作者:toyotomi 2005-10-16 20:58:00)


这首和歌本是平敦盛所创,因幼年同伴源义经成为死敌,而感慨世事无常。但因织田信长对其的推崇与喜爱,却被作为织田信长的辞世歌而广泛流传,其中一句“人间五十年”比原名“敦盛”更为人所熟知。而织田信长被属下明智光秀围困而自杀于本能寺时,正值49岁。

#8 作者:风过处 2005-10-16 21:54:00)


顶一下,明白的帮忙解释一下哦!谢谢

#9 作者:muliyo 2005-10-17 16:30:00)


以下是引用toyotomi在2005-10-16 20:58:00的发言: 这首和歌本是平敦盛所创,因幼年同伴源义经成为死敌,而感慨世事无常。但因织田信长对其的推崇与喜爱,却被作为织田信长的辞世歌而广泛流传,其中一句“人间五十年”比原名“敦盛”更为人所熟知。而织田信长被属下明智光秀围困而自杀于本能寺时,正值49岁。

嘿嘿,看过「国盗り物語」之后,我也会唱了,这首和歌…………汗…………

#10 作者:看我的口型 2005-10-17 21:03:00)


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