#1 作者:jinmeili 2004-8-9 14:10:00)
星をひろいに
水の中から空をのぞいた時のように、あたりが青く柔らかな色で充ちていた。 それがカーテンのせいだと綾乃が気づくまでしばらくあった。 ああ、そうだった……綾乃は上体をゆるゆると起こした。ベッドの向こうに見慣れた桐の和ダンスがある。灰白色の渋い艶を持つそれが、眠らずに見守っていた古い友人のようで綾乃の口元がふっと緩む。 和ダンスの上に小さな仏壇があって、その中に十五年前に亡くなった夫の位牌と遺影がある。写真が苦手だった夫は、少し横向きで照れかくしのまぶしそうな視線を綾乃に投げかけていた。 「父さん、とうとう来てしまったよ。有料の老人ホーム」 声にだして言ったとたん、みぞおちの辺が急に空洞になったような気がした。綾乃は身震いをひとつして、十畳ほどの部屋の中を見まわした。ベッドと和ダンスの他、大きなものはなにもない。いっそさばさばとして気持ちがよかった。 シンプル イズ ベスト……その意味を教えたのは孫娘の由衣だったが、昨日、由衣の母親が持っていくように勧めたテレビも冷蔵庫も断った時、綾乃は由衣にそっとささやき返したのだった。 七十を五つ超えた頭に、テレビドラマはインチキが見え透いてつまらないし、コマーシャルの騒々しさは神経にこたえる。冷蔵庫だって食が細くなれば無用の長物だった。 ほかにも綾乃の身辺に物はいつの間にか黴のように増殖してしまっていた。ひと月ほどかかって綾乃はそれらのほとんどを処分してきた。 「おかしなもんだね、父さん……ひとつ物を捨てるたびに、腹の底がわずかずつ重たくなるんだ。捨てたら軽くなるはずだのに、逆に重たくなるんだからね。重たいってゆったって重苦しいとゆうんではない……なんだかひとつ、ひとつ、覚悟みたいな重しが積もっていくんだよ」 習い性となってしまった独り言を綾乃はつぶやきつづける。 「父さん、ここがわっちの終の住家さ……タンスと仏壇と身の回り品のほかになにが必要なもんかね。死ぬ時は、生まれた時とおんなじで清潔な身ひとつだけ残せばいいんだ。そう、余分なものはみんなふるい落としていくよ」 とはいえ、綾乃にもわずかだが心残りがあった。テレビの深夜番組のプロレスだった。 「懐かしいねえ。テレビ初めて買ったのは札幌にでてからだけど、あの頃は金曜日の夜の八時が楽しみだったよ。父さんなんか、八百長だ八百長だって言いながら、組んだあぐらがずんずんテレビに寄っていったものね。それが今じゃ深夜だわ……もうひとつ見たいのは、ネパールやモンゴルなんかのドキメンタリだね。昔のわっちら見てるみたいだよ。みんな貧しいけど眼ぇきらきらさせてねえ。ま、見たければホールでも見られるし」 綾乃はテレビのないクリーム色の壁を一瞥した。壁にかけた時計はまだ五時だった。綾乃は仰向けになり息を大きく吸って、膝をかかえてゆっくりと縮めた。いつものことだが、まるで油の切れた機械のように節々がぎしぎしと鳴る。それから長く息を吐きながら腕と脚をこれもゆっくりと存分に伸ばす。それを何回かくり返すときしみ感もなくなって動きがスムーズになってくる。ここ十年ほど前から始めた寝起きのストレッチ体操だ。この習慣のおかげでひどかった腰痛とも縁が切れていた。 この世に未練はないけど、足腰がゆうこときかなくなっちゃ惨めだからねえ……綾乃は自分にいいきかせる。 「それにしても、奴はどうしてあんな顔しかできないんだろね」 綾乃は何回目かの膝抱えをしながら、昨夜、嫁の提案でみんなでとったホテルの夕食時を思いだした。みんなといっても長男夫婦と由衣だけだったが。 「奴の仏頂面ときたら、なにが楽しくて生きてるのかねえ。あれもストレスかね。昨夜は豪勢な食事だったけど、文字どおり最後の晩餐さね」 綾乃は頭をふりふりベッドをおりた。 カーテンを開けると外はすっきりと五月晴れだった。バルコニーの向こう表面になだらかな丘陵が果てもないように左右に広がり、新緑が一面、朝陽を弾いてさんざめいている。 それは、見渡すかぎり光がはぜる朝の海によく似ていた。綾乃の目の前に故郷の海が拡がり、まだ温もっていない引き締まった潮の香までがよみがえってきた。





