年月がたっても帝は桐壺の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝――
帝の
従兄あるいは
叔父君――の第四の内親王でお美しいことをだれも言う方で、母君のお
后が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している
典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。「お
亡れになりました
御息所の御
容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」 もしそんなことがあったらと
大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の
御入内のことを懇切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の
女御が並みはずれな強い性格で、桐壺の
更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお
崩れになった。姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞きになって、「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」 となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、兄君の
兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は
藤壺である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壺の更衣に似ておいでになった。この方は御身分に
批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも
貶める言葉を知らなかった。桐壺の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お
傷手が新女御の宮で
癒されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。 源氏の君――まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。――はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は
藤壺であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壺である。宮もお
馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壺の宮が出現されてその方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壺へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」 など帝がおとりなしになると、子供心にも花や
紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の
嫉妬の対象は藤壺の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた
旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王方の美を遠くこえた源氏の
美貌を世間の人は言い現わすために
光の
君と言った。女御として藤壺の宮の御
寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。 源氏の君の美しい
童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の
歳に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお
指図になった。前に東宮の御元服の式を
紫宸殿であげられた時の
派手やかさに落とさず、その日官人たちが各階級別々にさずかる
饗宴の
仕度を
内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、それでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の
椅子がすえられ、元服される皇子の席、加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳の所で輪にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は
大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は
御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。加冠が終わって、いったん
休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壺の宮をお得になって以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。まだ小さくて
大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずにお
返辞を
躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。大臣は帝の御意向をも伺った。「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせればよい」 という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。 今日の
侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。帝のお居間のほうから仰せによって
内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い
大袿に帝のお召し料のお服が
一襲で、これは昔から定まった品である。酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。
いときなき初元結ひに長き世を契る心は結びこめつや
大臣の
女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。
結びつる心も深き元結ひに濃き紫の色しあせずば
と返歌を奏上してから大臣は、
清涼殿の正面の
階段を下がって拝礼をした。
左馬寮の御馬と
蔵人所の
鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。この日の御
饗宴の席の折り詰めのお料理、
籠詰めの菓子などは皆
右大弁が御命令によって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。 その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、今度また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢力は比較にならぬほど
気押されていた。左大臣は何人かの
妻妾から生まれた子供を幾人も持っていた。内親王腹のは今
蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。 源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には
藤壺の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壺の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏はもう藤壺の御殿の
御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の
音の中にその方がお
弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の
宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壺を源氏の宿直所にお与えになって、
御息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家のほうは
修理の役所、
内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。もとから
築山のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終
歎息をしていた。
光の君という名は前に
鴻臚館へ来た
高麗人が、源氏の
美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。