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私たちの記念すべき初めてのデートは、その駅のすぐ向かいにある喫茶店だった。
そのお店に私たちは五時間いた。すごい。
私たちは北校舎の教室でないところで、五十分ごとの休憩時間もなく、五時間もの間、半径1メートルの時間を過ごした。すごい。
あなたはその日、てん ペンギンの子育てについて話してくれた。どうしてその話になったかとういうと、その日は九月にしては猛暑で、地球の温暖化の話になって、だったら北極とか南極はどうなっちゃうのかな、という話になって、北極熊なら動物園で見たことがあるけどこの暑さではバテてるわねと私が話すと、皇帝ペンギンが僕は好きなんだ、とあなたが話したことから始まったのだ。
「キングペンギンって聞いたことあるけど、皇帝ペンギンのこと?」
「違うよ、似てるけどね。南極大陸本土で繁殖するのは皇帝ペンギンとアデリーペンギンの二種だけなんだ。キングペンギンやジュンツーペンギン、イワトビペンギンなんかは南極大陸周辺の海域で繁殖してるんだよ」
「そうなんだ」
「四月になると、皇帝ペンギンは子育ての場所を探して100キロの移動を始めるんだ。
メスは卵を一個だけ産むと元の場所に帰っていく。オスがそのあとを引き受けるんだ」
「引き受けるって」
「卵を温めるんだよ」
「オスが?」
「そうだよ。卵は氷の上では生きていけないから、オスは自分の足の上に卵をのせて温まるんだ」
「あ、その光景は図鑑で見たことあるような気がするわ。あれってオスの姿だったのね」
「うん。でね、その間オスは餌を取りにいけないんだよね。つまり食べられない。だから卵を温めている間に体重が半分くらいに落ちることだってあるんだよ」
「すごい。忍耐強いのね。メスは何も協力しないの?」
「卵がかえる七月頃になると、メスは雛に餌を与えに戻ってくるんだ」
「そこから家族が始まるのね」
「その頃には広い範囲でペンギンのつがいだらけだよ」
「足の上ってあったかいのかしら?」
「温かいよ。ヒナは生後八週目まで親鳥の足の上で過ごすんだ。あったかくて安心だよ。写真で見る限り、ヒナは安心しきった顔で親鳥の足の上にいる」
「かわいい」
あなたはジンジャエールを、私はアイスコーヒーを注文したきり、あっという間に五時間は過ぎた。そして、日が暮れて帰る時間になってしまった。
私たちは一緒に駅に向かい、切符を買った。一緒に改札を抜け、ホームに降りた。五分後にあなたの列車が、その二分後に私の列車が来る。
皇帝ペンギンの子育てや巣立ち方は面白かったけれど、それよりももっと、あなたの楽しそうに話す姿が嬉しかった。あなたの姿を一秒一秒胸に詰め込んだ。これから先何十年経っても今日のあなたを寸分違わず思い出せるように。笑う時の目の下の小さなシワや、ふと話をとめて真顔でわたしを見る瞳の色まで。
「榎田さんを見送ってから帰るよ」
「私も、もう一本ぐらいは大丈夫だから」
まだ離れたくない。
これきりになってしまうのはいや。
だけどちゃんと列車はホームにやって来た。
「次はいつ会える?」
「私は乗客の波に呑まれて列車に乗り込む。
「またわたし、寮に戻っちゃうの」
発車のベルが鳴る。私は大声であなたに言う。
「だから、、、、、」
また手紙を書きます!
ドアが閉まった。
ねえ、ちゃんと聞こえた?
寮に戻る頃には夏はすっかり終わっていた。
九月七日には聞こえた蝉の鳴き声のかわりに、風に揺れる木々が秋の訪れを知らせていた。
寮に幸い一人部屋で、お風呂とトイレが共同だった。毎朝食堂で朝食をいただくより先に寮全体の掃除時間がある。朝起きて、身支度を済ませたら、まず掃除。
秋穂 たくみさま
清掃活動はたしかに大事だと思います。
キレイな場所で精神も磨かれる、、、、、、それは確かにありえそうだけど、掃除ってやっぱりしたい時にしたいものだと思わない?
そのあと一斉に食堂で朝食です。寮生一〇〇人が一同に手を合わせて「いただきます」。
壮観です。ところが意外と掃除のあとの食事っておいしいのよね。寮に入らなかったら、知らなかった種類のおいしさだったかも。
巧くんの陸上はどうですか?
榎田さんへ
手紙をありがとう。
すごいね、女の子の寮ってきっとすごくきれいなんだろうね。
男の僕には目覚めから掃除って、ちょっと想像できないけど。
ご飯がおいしいってのは、なんかわかる気がしました。
こちらは高校の時と違って、もっと先輩後輩の関係が厳しいです。
でも自分の納得できる走りがしたいから、頑張ります。
応援よろしくね。
秋穂 巧さん
頑張ってるのね。えらいなぁ。
あの頃、放課後校庭を走る巧くんを見ていたら、いつも私も頑張らなきゃって思ってたの。また巧くんの走っている姿がみたいな。もし、試合とかあったら知らせてね。応援に駆けつけるから。
ところでどうして最初に走ろうって思ったの?そのきっかけは?
よかったら教えてくださいね。
榎田さんへ
ありがと、応援うれしいよ。
手紙をもらって、僕にとって走る、ってなんだろうなあ、と考えてみました。
僕は毎日運動場のトラック400メートルをくるくる、くるくる回っています。
これって楽しいのかそうじゃないか、と聞かれると、楽しいってことはないんだ。
でもとても面白い感じてる。すごく普遍的な行為だよね。惑星も電子も、みんなそうやって回ってるんだから。
僕はもともとこの変わりない行為が好きなのだと思う。
いまはタイムに追われているし、自分の限界を知りたいという好奇心もある。けど、もしいつかそういうことから解き放たれたら、僕は惑星や電子のように、それが生きている上の当たり前のことのように、ひたすらに走ってみたい、と思う。
質問の答えになったかな?(え?なってないって?)
秋穂 巧さま
最近やっと涼しくなってきましたね。
お手紙読みました。巧くんにとって、走るってとても大切なことなんでしょうね。
当たり前のように大切なことって、あるな、と思いました。こうやって普通に呼吸してるけど、この普遍的な行為って生きる上でどうしようもなく大事なことだものね。
でも、世の中には自分にとって大切なものが時とともに移り変わることも珍しくないよね。
友情も恋愛もどんどん手軽になって相手を変えていくし、私自身あんなに好きでこれさえあればどこに行っても生きていけると思っていたチロリンチョコを最近あまり食べたいと思わなくなってきました。
好きな小説家も移り変わるし、十年習ってたピアノも受験の時にやめてしまったし。
巧くんのように普遍的なことを普遍的なことだと意識しながら続けられるのってすごいと思う。普遍的なことは普遍的なことだと意識されないから惑星も電子も回りつづけるのじゃないのかな。よくわからないけど。
秋の夜長に考えてしまいました。とにかく、巧くんは素敵、ということなんだけど。
榎田さんへ
気温が下がると陸上の練習も少し楽になってきました。
やっぱ炎天下はキツかったー
「素敵」とか言われると照れちゃうよ。でもありがとう。
なんていうか、僕は変わりゆくものと、絶対に変わらないものと両方あると思うんだ。
変わらないものは、変わらないことに関していうと絶対的で、とにかく変わりようがないんだ。そのものが持つ意思と関係なくね。
そういうのって確実にあると思ってるよ。人の心にも。
心の中っていうか。あるよ、きっと。
秋穂 巧さん
うん、巧くん、そんな気がしてきた!
きっとそうだよね。
私の気持ちきっとそうだと思う。変わりっこないもの。
すごいよ、嬉しい。
そうそう、聞いて。寮のお風呂は共同で、毎回六人ずつ班ごとに入るんだけど(入学当初は裸のおつきあいって抵抗ありまくり!今はだいぶ慣れたけど、、、、、、)
今日ね、一緒にお風呂に入った友達に「澪、痩せてキレイになったんじゃない?」って言われたの。
なんとなく、巧くんと九月七日に会ってからいい感じ、な気がします(照)。
榎田さんへ
榎田さんの気持ちってなんだろう?
よかったらまた教えてね。
お風呂の話は、僕も、照れます(なぜか聞かないように)。
とにかくすばらしいってことだ。なによりなにより(照)
私たちが二度目のデートを果たしたのは、年が明けて最初の月曜日だった。
蝉の鳴き声から季節を超えて、厚みのある白い空の下で私たちは会った。といっても待ち合わせ場所は夏の終わりと同じ、駅のコンコースなのだけど。
今度はあなたが先に待ち合わせ場所にいて、本を読んでいた。少しの間、私はあなたがJRのお知らせポスターの前で立ったまま読書している姿を眺めた。
高校生の頃もあなたはよく休憩時間に読書をしていた。
あなたが瞬きもせず読んでいた本に、少しだけ妬いていた気がする。
「秋穂くん」
私は声をかけた。あなたは私に視線を合わせると、瞳を潤ませて鼻をすすった。
「泣いてるの?」
私は驚いて訊いた。あなたはこくんと頷いた。
「なにが悲しいの?」
あなたが無言のまま本の表紙を揚げ私に見せた。「タイタンの妖女」というタイトルで、表紙は首輪でつながれた犬の骨の絵だった。かわいいテリア犬が飼い主と離れ離れになって会うことも叶わないまま、死んでしまうストーリーなのだと、すぐに< >
「あんたは優しいひとね」
「え?なに?」
「ううん、なんでも」
私は微笑んでみせた。それからずっと後になって、その本を借りてびっくりしたけど。
私たちは九月に入ったのと同じ喫茶店に入った。
とても幸せな月曜日の午後。
この日以来、私にとって月曜日は特別になる。
これよりずっと後のことだけれど、結婚式も月曜日にしたし、結婚届を役所に提出したのも月曜日。大事なことは月曜に!この年初めての月曜以来、これが私の密かなスローガンとなった。祐司が生まれたのも月曜日。なんてすばらしいの。
喫茶店に入って、あなたはすぐにこう言った。
「そのモヘアのセーター、似合ってるね」
それだけでも素敵なのに、あなたはさらにこう言った。
「もうすぐ誕生日だよね」
「ええ」
ドキドキした。なんとなく、手に持っていた大きな紙袋が気になってはいたの。
「これ、誕生日プレゼント」
あなたはノートよりも大きなサイズの包みをテーブルに置いて、私のほうに押した。
「すごい」
心に思うつもりが、本当に声に出してしまっていた。だって男の人にこんなふうにプレゼントをもらうのは初めてだったから。
包みを開けてみるとプラスチックのフレームだった。中には女の子の後ろ姿のイラストが入っている。肩までのストレートヘアとスカートにサンダル。
「これ、私?」
「そう、榎田さん」
「秋穂くんが描いたの?」
「そう、僕が描いた」
男の人からプレゼントをもらったのも初めてだったけど、好きな人が私の絵を描いてくれるなんて経験も初めてだった。
「嬉しい、、、、、、」
「よかった」
「信じられない。すごく嬉しい。こんなことがあるなんて。すごい。嬉しい」
「喜んでもらえてよかったよ」
「嬉しい!大事にする!ありがとう!ありがとう!」
「そ、そんなに喜んでもらえて、僕も嬉しいよ」
注文していたダージリンティーとココアが来た。
抱きしめていたらココアが飲めないよ。榎田さん、とあなたが言うまで、あなたが描いた私の絵を胸に抱いていた。プラスチックフレームは体温があるみたいに温かくて、あなたは気のせいだと笑うかもしれないけれど。微かにバニラの香りがした。
「ね、榎田さん」
私はココアのカップをテーブルに置いた。
「はい」
「なんていうか、密かに気になっていたんだけど」
「はい?」
「榎田さんの変わらない気持ちって、なに?」
「え、、、、、」
「ほら、手紙にあったじゃない。人の心にも絶対的に変わらないものがあるよって僕が書いたら、榎田さんはこの気持ちも変わりっこない、って手紙くれたよね。それってなんだろなあ。って気になってたんだ」
「はい、えっと、、、、、」
「あ、もし嫌なら言わなくていいんだけど」
「あ、ううん、嫌じゃないわ」
「そう?」
私は頷いた。
あのね、と私は言った。だけどそれきり口ごもってしまった。
「榎田さん?」
私は息を吐いた。
「私、秋穂くんのこと」
「うん」
「、、、、、、」
好きです。
「だから、秋穂君の手紙が嬉しかった。変わらないものがあるって、嬉しかったの。ずっと秋穂君のこと、好きでいていいよって言ってもらえた気がしちゃって。
秋穂くんが、私のことを好きになってくれても、くれなくても」
あ、だめ。涙が出てきた。
泣いちゃだめ。秋穂君がびっくりする。
私は慌てて、目頭を押さえながら言った。
「勢いで言っちゃったけど、あの、気にしないで」
「あ、いや」
あなたは言った。とても緊張した顔で。
「ありがとう、すごく、嬉しいよ」
私はあなたの言葉をゆっくりと飲み込んで、それからふふ、と笑った。あなたもつられて笑った。あなたはもう一度言った。
ありがとう、榎田さん。嬉しいよ。