舞舞舞2
というのだが、その名前と実体から受ける印象がかなり掛け離れているので(ドルフィン・ホテルという名前は僕にエーゲ海あたりの砂糖菓子のように真っ白なリゾート・ホテルを連想させる)、僕が個人的にそう呼んでいるだけだ。入り口にはいるかを描いたなかなか立派なレリーフがかかっている。看板もかかっている。でももし看板がかかっていなければ、それは全然ホテルには見えないだろうと思う。看板があってさえ、なかなかそうは見えないくらいなのだ。何に見えるかというと、それはまるでうらぶれた博物館のように見える。特殊な展示物を見るために、特殊な好奇心を抱いた人々がひっそりやってくるような、そんな特殊な博物館。
でももし人がいるかホテルを眼前にしてそのような印象を抱いたとしても、それは決して的外れな想像力の飛翔ではない。実を言えば、いるかボテルの一部は博物館を兼ねているのである。
誰がそんなホテルに泊まるだろう?その一部がわけのわからない博物館になっているようなホテルに?暗い廊下の奥に羊の剥製やら、埃だらけの毛皮やら、黴臭い資料やら、茶色く変色した古い写真やらが積みかさねてあるようなホテルに。果たされざる想いが乾い磕啶韦瑜Δ擞纭─摔筏盲辘趣长婴辘膜い皮い毪瑜Δ圣邾匹毪耍?/FONT>
全ての家具は色褪せ、全てのテーブルは軋み、全ての鍵は上手く閉まらなかった。廊下は磨り減り、電球は暗かった。洗面台の栓は歪んでいて、水がうまくたまらなかった。太ったメイド(彼女の脚は象を連想させた)は廊下を歩きながらコホコホと不吉な咳をした。いつもカウンターにいる支配人は哀しげな目をした中年の男で、指が二本なかった。この男は見るからに、何をやってもまずうまくは行かないというタイプだった。そういうタイプのまさに標本みたいな男だった。まるで淡い青インクの溶液に一日漬けておいてから引っ張り上げたみたいに、彼の存在の隅から隅までに失敗と敗退と挫折の影が染みついていた。ガラスの箱に入れて、学校の理科室に置いておきたくなるような男だった。「何をやっても上手くいかない男」という札をつけて。彼を見ているだけで大抵の人は多少の差こそあれ惨めな気持ちになったし、腹を立てる者も少なからずいた。ある種の人はそういうタイプの惨めな人間を見ているだけで意味もなく無性に腹が立ってくるのだ。誰がそんなホテルに泊まるだろう?
でも僕らは泊まった。我々はここに泊まるべきなのよ、と彼女は言った。そしてそのあとで彼女はいなくなってしまった。僕ひとりを残して消えてしまったのだ。彼女が行ってしまったことを僕に教えてくれたのは羊男だった。彼女は行ってしまったんだよ、と羊男は僕に教えてくれた。羊男は知っていたのだ。彼女が行かなくてはならなかったのだということを。僕にも今ではわかる。彼女の目的は僕をそこに導くことにあったからだ。それは運命のようなものだった。あたかもモルダウ河が海に達するように。僕は雨垂れを見ながら、そのことを考える。運命。僕がいるかホテルの夢を見るようになった時に、まず思い浮かべたのは彼女のことだった。彼女が僕をまた求めているのだ、と僕はふと思った。そうでなければ、どうしてこんなに何度も同じ夢を見るのだ?
彼女、僕は彼女の名前さえ知らないのだ。彼女と一緒に何カ月か暮らしたというのに。僕は彼女について実質的には何ひとつ知らないのだ。僕が知っているのは彼女がある高級コールガール・クラブに入っているということだけだった。クラブは会員制で、身元の確かなきちんとした客しか相手にしなかった。ハイ・クラスの娼婦だ。彼女はそれ以外にもいくつかの仕事を持っていた。普段の昼間は小さな出版社でアルバイトの校正係をやっていたし、パートタイムに耳専門のモデルもやっていた。要するに彼女はとても忙しい生活を送っていたわけだ。彼女にはもちろん名前がないわけではなかった。実際の話彼女は幾つも名前を持っていた。でもそれと同時に彼女には名前がなかった。彼女の持ち物ーー殆どないも同然だったがーーのどれにも名前は入っていなかった。定期券も、免許証も、クレジット・カードも持っていなかった。小さな手帳をひとつ持っていたが、そこには訳のわからない暗号がボールペンでぐしゃぐしゃと書きこんであるだけだった。彼女の存在にはとりかかりというものがなかった。娼婦は名前を持っているかもしれない。でも彼女たちは名前を持たぬ世界で生きているのだ。
とにかく僕は彼女について殆ど何も知らない。どこで生まれたのかも、歳が幾つなのかも。誕生日だって知らない。学歴もしらない。家族がいるかどうかさえ知らない。何も知らない。彼女は雨ふりのようにどこかから来て、どこかに消えてしまったのだ。ただ記憶だけを残して。
でも今僕は僕のまわりで彼女の記憶が再びある種の現実性を帯び始めていることを感じる。僕はこう感じるのだ。彼女はいるかホテルという状況を通して僕を呼んでいる、と。そう、彼女は今また再び僕を求めているのだ。そして僕はいるかホテルにもう一度含まれることによってのみ、彼女ともう一度巡り合えるのだ。そしておそらく彼女がそこで僕の為に涙を流しているのだ。
僕は雨垂れを見ながら自分が何かに含まれるということについて考えてみる。そして誰かが僕の為に泣いていることについて考えてみる。それはひどくひどく遠い世界のことのように感じられる。まるで月か何かそういう所の出来事のように感じられる。結局のところ、それは夢なのだ。手をどれだけ長くのばしても、どれだけ早く走っても、僕はそこにたどりつけないような気がする。
どうして誰かが僕の為に涙を流したりするんだ?
いや、それでも、彼女は僕を求めているのだ。あのいるかホテルのどこかで。そして僕もやはり心のどこかでそれを望んでいるのだ。あの場所に含まれることを。あの奇妙で致命的な場所に含まれることを。
でもいるかホテルに戻るのは簡単なことではない。電話で部屋を予約し、飛行機に乗って札幌に行けばそれで終わりというものではないのだ。それはホテルであると同時にひとつの状況なのだ。それはホテルという形態をとった状況なのだ。いるかホテルに戻ることは、過去の影ともう一度相対することを意味しているのだ。それを考えると、僕はたまらなく陰惨な想いに襲われた。そう、僕はこの四年のあいだ、その冷ややかでうす暗い影を