「もの」と「こと」
※「もの」と「こと」
日本語では「もの」と「こと」は厳格に区別され、言葉の構造の骨格を形づくる。最も基本的な構造日本語が「こと」と「もの」である。次の例で「もの」と「こと」を入れ替えると明らかに意味をなさない。 ◇まあ、人のいることいること。 ◇出がけに不意の客がきたものですから。 ◇人生はむなしいもの。 ◇なんとばかげたことをしでかしたものだ。 ◇教えてくれないんだもの。 ◇きれいな花だこと。
「もの」と「こと」は取り違えることなく使われる。意味をいちいち判断して使うのではなく、発話者の意図と言葉が一体になっているから「もの」「こと」は正しく使われる。日本語の構造と言葉の意識が一体になっている。「もの」の一連の世界を一つの「こと」としてつかむのは人の認知作用の根幹である。日本語のに「こと」という言葉が生まれたのは、考えてみれば不思議である。言葉というもののはたらきそのものを言葉にした言葉が「こと」である。
「こと」は事実の発見の意識を表現し、「もの」は個人の力の及ばないものの存在を表現している。「もの」が世界を「見る」ことによって切りとられるのに対して、「こと」は世界に耳を傾け「きく(聞く、聴く)」ことによって言葉としてつかまれる。
「もの」が対象であるか、「こと」が対象であるかは、ほぼ動詞の意味によって定まっている。 ◇見たいものがある。差し上げたいものがあります。 ◇聞きたいことがある。話したいことがある。悲しいことがあった。
しかし ◇書きたいことがある。 ◇書きたいものがある。
同じ「書く」であるが、「書きたいこと」は筆者の内面を表現しようとすることを意味し、「書きたいもの」では報道など客観的事実を書きあらわして伝えようとすることを意味する。
※「こと」は日本語でもっとも意味の深い言葉である。「こと」という言葉があるがゆえに、「こと」そのものとは何か、と考えることを人に促す。それは結局この世界の生きた存在そのものであり、「こと」は人に対して、世界と直接触れることを促す。「こと」は言葉が途絶える境まで人を連れていく。「こと」を紡ぎだし今日に活かしているなかに、人の、あるいは世界の、あるいは命の、深い智慧がある。「こと」を西欧近代の「学」でとらえることはできない。「こと」を「学」の対象とするときそれはもはや「こと」ではない。「こと」の現実態としての「言葉」を「学」の対象とするとき、言葉の最も肝心な「こと」が捨象される。
この問題を根底から考えたのはドイツの哲学者ハイデッガーである。ハイデッガーは神秘的な表現をしているが、西欧とは異なる日本語のあり方を言い表そうとしている。
しかし問題は、西欧の補完としてではなく、日本語内部の問題として「学」はどのようなものとしてあり得るのか、という問いである。
※精神科医である木村敏氏は離人症における「こと」と「とき」の欠落を報告している。「こと」と「とき」が人間の認知を支える根幹であり、日本語はそれを「ことば」にしていることを述べている。上に述べた言葉内部からの「こと」の定義を、臨床の場における事実でうらづけるものとしてその部分を引用する。