一瞬、自分の耳を疑いながらも、アナベルはドレスの胸に挿していた薔薇のつぼみを外して、スペンサー氏の手の上に置いた。ジミィはそれをヴェストのポケットに押し込み、上着を脱ぎ捨て、シャツの袖をまくった。それとともに、ラルフ·D·スペンサーなる男は消え失せ、ジミィ·ヴァレンタインが姿を現した。
「ドアから離れていてください、みなさん。」とジミィは言葉少なに命令した。
ジミィは机に愛用のスーツ·ケースを置き、二つに開いた。その瞬間から、誰の存在も気にしていないようだった。ジミィはぴかぴかに磨いた妙な道具を、整然と素早く並べ、仕事にかかるときはいつもするように、小さく口笛を吹いた。あたりは静まりかえり、誰も動こうとしなかった。ただ、ジミィのやることを、魔法にかかったかのように見守るだけだった。
一分もすると、ジミィの愛用のドリルが鋼鉄製の扉にきれいな穴を開けていた。十分後、ジミィは今までの金庫破りの自己記録を破る早さで、かんぬきを後ろに投げ捨て、扉を完全に開けていた。
アガサはもうふらふらだったが、命は無事で、母親の腕の中に抱きしめられた。
ジミィ·ヴァレンタインは上着を羽織って、木の柵の外に出た。正面入り口の方へ歩いていく。そのとき、遠くの方で聞き覚えのある「ラルフ!」という呼び声を聞いたような気がした。だが、ジミィにためらいはなかった。
入り口のところで、大男が行く手をふさいでいた。
ジミィは、妙な笑みを浮かべたまま、こう言った。
「やぁ、ベン。ついにやってきたか。それじゃあ、行こう。何を今さら、って感じになるのは否めないけど。」
すると、ベン·プライスは、ちょっと変なそぶりを見せた。
「何か誤解していらっしゃいませんか、スペンサーさん。わたしには、あなたが誰だったか、記憶にありませんね。そうそう、馬車がずっとあなたのことをお待ちですよ。」
と、ベン·プライスはきびすを返して、ゆっくりと通りの向こうへ歩いていった。
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