「汽車に乗ってゆくの?」
「汽車に乗ってゆくんだよ。」
「お船は?」
「初めに、お船に乗って……。」
「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして。」不意にかん高い声が響いた。
びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開いて立ったところは、まるで製図用の脚の細いコンパスそっくりだった。
わたしはドキンとした。
「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」
ますますドキンとした。幸い、母が現れて口添えしてくれた。
「長いこと家にいなかったから、見忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」
とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん……豆腐屋の。」
そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢は、見ようにも見られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調子で、冷笑を浮かべながら、
「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね……。」
「そんなわけじゃないよ……ぼくは……。」わたしはどぎまぎして、立ち上がった。
「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね。」
「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で……。」
「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」
返事のしようがないので、わたしは口を閉じたまま立っていた。
「ああ、ああ、金がたまれば財布のひもを締める。財布のひもを締めるからまたたまる……。」コンパスは、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に母の手袋をズボンの下へねじ込んで。
そのあと、近所にいる親戚が何人も訪ねてきた。その応対に追われながら、暇をみて荷ごしらえをした。そんなことで四、五日つぶれた。
ある寒い日の午後、わたしは食後の茶でくつろいでいた。表に人の気配がしたので、振り向いてみた。思わずアッと声が出かかった。急いで立ち上がって迎えた。
来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親がそうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。
わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、
「ああ、閏ちゃん──よく来たね……。」
続いて言いたいことが、あとからあとから、数珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。
彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页