自然へのまなざしが優しかった歌人、木下利玄に次の作がある。〈根ざす地の温(ぬく)みを感じいちはやく空いろ花咲けりみちばた日なたに〉。もう一首〈夕づける風冷えそめぬみちばたの空いろ小花(おばな)みなみなつぼむ〉
投向自然的眼神总是那么温柔的歌人木下利玄写过如下作品:“扎根之地春晖暖,生灵有知寝不安,花开朵朵蔚蓝色,沐浴阳光在路畔”。还有一首:“日暮西山清风冷,路旁尽染见精神,花开虽小天蓝色,含苞待放似有魂”
▼植物好きの方なら、この「空色の花」が何か、たちまちお分かりだろう。そうですオオイヌノフグリ。その名は「犬の股間の袋」の意味だ。先の小欄で「酷な名」と書いたら、「だからこそなじみ深いのです」といった便りを頂戴(ちょうだい)した。地味ながらこの花、やはりファンが多い
喜欢植物的人马上就能反应出这“蔚蓝色的花”指的是什么吧。是的,说的正是波斯婆婆纳。名字的意思是“狗两腿间的袋子”。之前本栏写道这是个“重口味的名字”,立刻就受到读者来信说“正因为如此才让人倍感亲切”。这花虽然毫不起眼,却仍有着许多粉丝。
▼まだ風の冷たい早春から、小さく愛らしく咲く。春の空を映したような四弁の花は、花の中心が白くなっている。ぱちりと瞳を開いたおさな子の利発さを、見る者に想像させる
从还是冷风阵阵的早春开始,它就星星点点十分可爱地盛开了。仿佛映射着春日天空的四瓣花朵,花的中心呈白色。让看到的人联想起孩子突然睁开眼睛透出的那种伶俐。
▼かつて、その名を不憫(ふびん)に思う人たちが「ほしのひとみ」という別名を提案したと、植物学者の長田武正さんが随筆に書いていた。長田さんは「こうなると今度はきれいごとすぎて、土の香りが欠けてしまう」。名前ひとつもなかなか難しい
植物学者长田武正曾在随笔中写道,以前有人认为这个名字很可怜,提出要改为“星瞳”。长田先生认为“这样的话就太过华丽、失去了泥土的芬芳”。一个名字也是很难起的。
▼仰ぐ桜が盛りの東京で、屈(かが)み見れば地面で野草が春を告げている。タンポポの黄とスミレの紫が並び咲く図など、豪奢(ごうしゃ)な桜花に負けぬ気品がある。人間様の独断で「雑草」とひとからげにしては申し訳がない
在仰起头来尽是樱花的东京,若是弯下腰看看地上,野草也在宣告着春天的到来。黄色的蒲公英与紫色的堇并行盛开的画面,让人感受到了不输于高贵的樱花的魅力。单凭人类独断的意见便把它们当成“杂草”真是有些过意不去。
▼〈漁港古(ふ)り縄と菫(すみれ)と子供かな〉永島靖子。海の凪(な)いだうららかな午後だろうか。年年歳歳花相似たり、という。だが人の世の無常に身を切られるような今年の春だ。無心に咲いてそよぐ野の花に、知らず励まされている。
“渔港旧绳角堇花 春日孩童无忧虑”永岛靖子。这描写的应该是海上风平浪静的午后吧。常言道,年年岁岁花相似。然而今年的春天却让人切身领略到了世事的无常。不知不觉中被这些无心地盛放、随风摇摆的野花身上得到了鼓舞。