ゆく夏、朝な夕なに美しい顔を眺めると心が安らぐ。いえ艶(つや)っぽい話ではありません。朝顔と夕顔を育てたら、酷暑にめげず花を咲かせている。朝の凜(りん)に夜の幽と言うべきか。一朝一夜のはかなさに、花がまとう空気も引き締まる。
在即将离去的夏日里,早晚看到美丽的容貌,内心也会感到舒畅。这可并非是什么风流故事。早晚的精心培育,使得花儿不畏酷暑绽放开来。应该说朝花凛然夜幽静么?一早一晚开放的短暂无常,连包裹花朵的空气也紧张起来。
朝顔は藍色、夕顔はむろん白である。朝顔は夕べを待たずにしおれ、夕顔は朝の光の中でしぼんでいく。二交代勤務といえば無粋になる。絶頂に凋落(ちょうらく)が潜む無常。そのたたずまいが、なかなかいい。
牵牛花是蓝色,葫芦花当然是白色。牵牛花等不到傍晚就凋谢了,葫芦花在清晨的阳光中渐渐枯萎。如果说两者是轮流上岗,那真是不懂风雅。在盛开时潜藏着凋落,万物无常。这种姿态非常好。
双方を詠んだ句が蕪村にある。〈朝がほや一輪深き淵(ふち)のいろ〉。この絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。〈ゆふがほや竹焼く寺のうすけぶり〉は、どこか楚々(そそ)とした野趣が漂ってくる。
无村有吟诵这两者的诗句。“牵牛花圆圆似碗口,色如深渊”。也有人说在这绝佳诗句面前,大多数吟诵牵牛花的诗句都显得苍白无力。“古寺廊前葫芦花,竹生青烟”这句诗总觉得浮现出鲜明的野趣。
二つの花は名は似ているが違い、朝顔はヒルガオ科に、夕顔はウリ科に属する。俳句でも、夕顔は夏の季語だが、朝顔は真夏の花のようで秋の季語になる。昔の朝顔は今の桔梗(ききょう)を言ったらしい。それが遠因ともいうが、思えば涼しげな咲き姿は、秋の先駆けにふさわしくもある。
这两种花名字相似但却天差地别,牵牛花属于旋花科,葫芦属于葫芦科。即便是在俳句中,葫芦是夏日的季语,但牵牛花虽然在盛夏开放却成了秋日的季语。有人说以前的牵牛花就是现在的桔梗花。虽然这可能有间接的原因,但是细细一想,让人感觉凉爽的开放姿态也似乎秋日先驱的形象。
拙宅の花に戻れば、開花の観察をまだ果たせないでいる。かつて落合恵子さんが小紙で「夕顔の時間」と題して書いていた。「なんと深い白さ」と愛(め)でながら、どうやってほころぶのか、その「時」に立ち会いたいと。この夏の朝と夕の、わが宿題でもある。
话题回到我家的花上,我还远远没有完成开花的观察。过去,落合惠子女士在本报上登载了名为《葫芦花的时间》的文章。深爱其“如此纯白”的同时,也想知道其如何开放,真想见到这一“时刻”。这个夏日,牵牛花和葫芦花如何开放也是我的作业。
きのうは各地で、土砂降りの雨が、猛暑でほてった空気を手荒に冷ましていった。晩夏から初秋へ。少しけだるい季節には、朝な夕なの凜と幽に知らず励まされる。
昨天在各地连降暴雨,粗暴地让因酷暑而发热的空气冷了下来。从夏末到初秋。在这让人稍感慵懒的季节,早晚那凛然幽静的样子不知不觉鼓舞着我们。