学生: 博士、もう少し詳しく「運」とか「偶然」とかいったものが、どういうものなのか 教えていただけませんか?
博士: むむむ…… ずいぶんと哲学的な問題じゃなぁ~ じゃあ、広く運、偶然性、ひいては巡り会い、なんてものに関するワシの考えなどを紹介しようか。 と、いっても結局はよくわからない、というのが定説じゃ。この運、偶然、運命といった問題はかなり古い時代、ギリシャの哲学者プラトンやアリストテレスといった人たちの時代から、延々と議論されておる。有名なところでは、ハイデガー、ショーペンハウアー、日本の九鬼周造さんまで、この問題にとりくんでおるが、結局、これだ!という結論は出ていない。ショーペンハウアーにしろ、九鬼さんにしろ「結局は断定的な意見はでないよ」と、本の中で言っておる。
学生:じゃあ、何もわからない? ってことですか?
博士:どうじゃろう。つまり、現代の科学では「運」の存在などを証明できんわけじゃ。「 幽霊」がいるのか、いないのか?って論争と同じじゃよ。幽霊を見た、という人はいるじ ゃろうが、他人に幽霊が存在していることを証明してみせるのは難しいわけじゃ。麻雀でも同じく、「ああ、ツイてる!」「運が味方している」と感じることはあっても、じゃあ説明 してみろ、となると困る。これは科学の力と密接な関係がある。 その昔は、自然現象などを神の怒りだと思っておった。空が暗くなってごろごろと雷がなると、ああ神様がお怒りだわ、と思った。しかし、現代では雷が自然現象であることは証明 されておる。反対に、その昔は空気中に「エーテル」という物質が存在しており、エーテルがあるから光が伝わるのだ、という考えが常識じゃった。ところが、科学が進歩し、アインシュタイン の登場によって「エーテルは嘘だ」ということが証明された。つまり「運」「偶然」といったものが、ちゃんと理論で説明がつく「雷」になるのか、ま ったく嘘だという「エーテル」になるのか?という答は科学が進歩すればわかるんじゃな いかな? という適当な答がワシの考えじゃ。
学生:本当に適当な答ですね じゃあ、麻雀におけるデジタル、 オカルトってなんですか?
博士:ふむふむ、それは麻雀の打ち方、打ち筋よりもっと深いところにある、その人の考え方の土台となる部分じゃ。「ワタシは占い信じません」「ワタシは占いを信じます」という 2種類の人がいるように、ワタシはデジタル派です。ワタシはオカルト派です、という考えじゃな。もちろん、キッパリとオカルト、デジタル、と言い切るのではなく中途半端な人も 多いじゃろう。麻雀におけるオカルトとは、簡単にいうならば、「今はツイてるから強気でいっても大丈夫だ」とか「今日はマンズで痛い目にあっているから、ソーズを中心に役をつくろう」とか、究極の形では「次は絶対にアレをツモする」とか、根拠はないが、感覚で判断するスタイルじゃ。「運」「流れ」「ツキ」といったものを肯定的に認めるのがオカルトじゃろう。反対にデジタルは、あくまで確率を中心に行くスタイルじゃな。運、流れ、といったものに左右されない、という統計学の考えなどが基本になっているんじゃないだろうか、とワシ は思う。根拠の有無は別として、オカルトの人は不思議と魅力があるというか、超能力者のようでカッコイイぞぃ。普通の人には考え付かないことをやってのける姿は、ヒーローのようじゃ .阿佐田哲也さんや、桜井章一さんの本などを読んでみると、このことは詳しく書いてあ る。
学生:じゃあ、早い時のリーチはたとえ何を待ちだとか、別のものをカンすると上がれなく なる、ってのはオカルトの考えなのですか?
博士:そうなるなぁ 「ハヤメのリーチはイーッスソー」とか「シャカンに上がり目なし」 なんて、古くから言われている麻雀の格言は、まあたいした根拠もない。黒猫が前をよぎっ たら不吉だ、とか、霊柩車や葬式を見たら親指を隠せ、とかと同じ程度じゃと思う。
学生:つまり、嘘だってことですか?
博士:嘘とは言葉が悪い。確かに普通に考えたら、そんな迷信は信じるものではない。食べてすぐ寝たら牛になる、って話を信じるようなものじゃろう。 ただし、ワシの考えでは、そういった迷信にも何らかの意味があるのだと思っておる。たとえば、「黒猫」の話にしても、きっと起源を辿れば、中世ヨーロッパの魔女信仰なんかに行き着くじゃろうし、親指を隠せ、は日本に古くからある「死」を忌嫌う思想と、中国の儒教の思想が結びついた結果生まれたものではないだろうか、と思う。ハーメルンの笛吹き男 の伝説なんて、調べて見れば面白いぞぃ。その麻雀の格言にしても、格言が生まれるだけの歴史や背景があったのだと思う。「ただの迷信じゃん」で終わらせるよりも、そういった視点で格言を見ていけば、わりと面白いん じゃないかえ。
学生:はぁ、なるほど。じゃあ、このまま話を聴いても何もわからない、ってことですね。
博士:残念じゃがそうじゃ。ただし「運」「ツキ」はあるかないかわからないのじゃから、信じる信じないは自由じゃし、誰もはっきりと否定も肯定もしないし、できない。信じる道をススメってことじゃないか。正解かもしれんし、間違いかもしれん。 というだけの問題 じゃ。