中華街の歴史は、1859(安政6)年の横浜開港と同時に始まりました。当初、買弁(ばいべん)と呼ばれる欧米人と日本人との貿易の仲介、通訳、あるいは使用人として来日した華僑は、広州出身者が圧倒的に多く、現在でも200軒ある料理店のうち約7割が広州料理店です。欧米人は山手に住まいしましたが、華僑は埋立地に居留地を求めました。 また、山下町全体の道割りに対し、中華街だけは、都のようにきちんと東西南北に区切られているのは、風水学によるものだということです。
中华街的历史始于1859年(安政6年)与横滨开港是同一年。最初,作为买办担当欧美人和日本人之间的贸易中介、翻译或是雇工来日的华侨中,广州出身的人占了大多数,现在200家餐厅中广州风味的餐厅还是占了7成。不同于欧美人住在山手,华侨在填筑地寻求居留地(指允许外国人居住的特别区域)。另外,据说因为风水学的关系,与整个山下町的道路划分不同,中华街独树一帜地像京都一样整整齐齐地划分成东西南北。
関帝廟は、現在、日本には神戸、横浜、函館の3カ所にあります。横浜の廟は開港時代の創建後、関東大震災、太平洋戦争、1986(昭和61)年の不審火と、3回も焼失し、現在のものは、1990(平成2)年に落成したものです。
目前在日本神户、横滨、函馆三处有关帝庙。横滨的庙廊在开港时期建立后,曾三度烧毁于关东大地震、太平洋战争、1986年的不明起火,现在的庙址建成于1990年。
関帝廟は、「三国志」の英雄、関羽を祀った廟です。関羽は、劉備(りゅうび)、張飛(ちょうひ)と出会い、蜀(しょく)の建国に尽力しました。死後も民衆の敬愛を受け、武神、財神としてあがめられ、華僑には大切な心のよりどころなのです。
关帝庙是祭祀《三国志》英雄关羽的庙廊。关羽与刘备、张飞相逢后,为蜀国的建立鞠躬尽瘁。死后也备受民众爱戴,被敬为武神、财神,是华侨心中的重要支柱。
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