関帝廟通りを進み、鮮やかな地久門をくぐり、長安通りへ出ます。長安通りへ出たら右へ曲がると、横浜中華学院の門がありますので、この門から校庭へ入ります。校庭へはいると、右側に孫文(そんぶん)と蘇曼殊(そまんじゅ)の石碑が並んで建てられています。
行进于关帝庙大道上,钻进华丽的地久门,步入长安大道。出长安大道后向右拐,即可见横滨中华学院的大门,从此门进入校园。穿进校园后其右侧孙文、苏曼殊的石碑并排而立。
中国近代化の父と慕われる孫文は、1866年広東省香山県に生まれ、少年時代に欧米文化に接し、19歳頃から革命を志しました。10回もの武装蜂起失敗にもめげず、1911年、辛亥革命を成功させ、中華民国臨時大統領に就任しました。
被后人追慕为中国近代化之父的孙文,1866年生于广东省香山县,少年时受欧风美雨的洗礼,19岁时就立志革命。虽然10次武装起义都以失败告终,他仍毫不气馁,1911年终于促成辛亥革命胜利,担任中华民国临时大总统。
以後、死の前年まで十数回、日本に訪れ、通算9年4か月、日本で過ごしています。このうち、横浜には6年近く滞在し、中華街に住む華僑から援助を受けました。このように、民主主義革命の先駆者である孫文は、横浜と大きな関わりをもったのです。
此后,至他辞世为止共访日数十次,总计有九年零四个月是在日本生活的。其中,逗留于横滨的时间有近六年之久,曾受到居住横滨的华侨援助。如此,民主主义革命先驱孙文与横滨有着密切关系。
蘇曼殊の父は広東省出身の買弁、母は日本人で、横浜に生まれました。幼児期は広東に預けられ、13歳で再び来日、大同学校(横浜中華学院の前身)で学び、後、早稲田大学高等予科、成城学校を経て、上海の「国民日日報」で翻訳、論説などに活躍しました。
苏曼殊之父是广东省出身的买办,母为日本人,生长于横滨。(苏)幼时曾被寄养在广东,13岁时再次来日,就学于大同学校,后来经过在早稻田大学高等预科、成城学校的学习,依凭上海《国民日日报》活跃于翻译、评论界中。
上一页 [1] [2] [3] 下一页 尾页