|
けれどもその二三日前にわたしは思いがけなくある日本の本を読んだ。惜しいことには本の名前も著者の名前も忘れてしまったが、とにかく支那芝居に関することで、その中の一篇をかいつまんでいうと、支那芝居は無闇に叩き、無暗に叫び、無暗に踊り、観客の頭を昏乱(こんらん)させるから、劇場向きではないが、野広(のびろ)いところで遠くの方から見ていると、自然に面白味がわかって来ると書いてあった。わたしはその時そう思った。これはいつもわたしの胸の中にあってまだ言い出したことのない言葉だと。だからわたしはいい芝居は野外で見られるものと、しっかり覚えていた。北京(ペキン)へ行ってからも芝居小屋に二度入ったが、やッぱりあの時の影響を受けたのかもしれない。わたしは何にも知らずに来たことを我れながら悔んだが、結局芝居の題目さえも忘れてしまった。 但是前几天,我忽在无意之中看到一本日本文的书,可惜忘记了书名和著者,总之是关于中国戏的。其中有一篇,大意仿佛说,中国戏是大敲,大叫,大跳,使看客头昏脑眩,很不适于剧场,但若在野外散漫的所在,远远的看起来,也自有他的风致。我当时觉着这正是说了在我意中而未曾想到的话,因为我确记得在野外看过很好的好戏,到北京以后的连进两回戏园去,也许还是受了那时的影响哩。可惜我不知道怎么一来,竟将书名忘却了。 わたしが実際いい芝居を見たのは、それよりずっと前の事だ。その時おそらくまだ十一二にもならなかったろう。わたしども魯鎮(ろちん)の習慣は、およそ誰でも嫁に入(い)ったむすめは、まだ当主にならないうちは、夏の間たいていは里方に行って暮すのである。その時分わたしの祖母はまだ達者であったが、母もいくらか家事の手伝いをしていたので、夏も長く帰っていることは出来なかった。ぜひなく墓掃除をすましたあとで、二三日の暇を見て抜け出して行(ゆ)くのであった。わたしは母親に跟いて外(がい)祖母の家(うち)に遊びに行ったことがある。そこは平橋村(へいきょうそん)と言って、ある海岸から余り遠くもないごくごく偏僻(へんぴ)な河添いの小村で、戸数がやっと三十くらいで、みな田を植えたり、魚を取ったりそういう暮しをしている間に、ただ雑貨屋が一軒あるだけであったが、わたしに取っては極楽世界であった。ここへ来れば優待されるのみか「秩秩斯干幽幽南山(チーチースーハンユウユウナンシャン)」などというものを唸らなくともいいからである。 至于我看那好戏的时候,却实在已经是“远哉遥遥”的了,其时恐怕我还不过十一二岁。我们鲁镇的习惯,本来是凡有出嫁的女儿,倘自己还未当家,夏间便大抵回到母家去消夏。那时我的祖母虽然还健康,但母亲也已分担了些家务,所以夏期便不能多日的归省了,只得在扫墓完毕之后,抽空去住几天,这时我便每年跟了我的母亲住在外祖母的家里。那地方叫平桥村,是一个离海边不远,极偏僻的,临河的小村庄;住户不满三十家,都种田,打鱼,只有一家很小的杂货店。但在我是乐土:因为我在这里不但得到优待,又可以免念“秩秩斯干幽幽南山”了。 わたしと一緒に遊ぶいろいろの小さな友達が遠客が来たので、彼等もまた父母の許しを得て、仕事を控えてわたしのお相手をした。小村の中の一家の客もほとんど何公共のものではないか。わたしどもは年頃もおつかつだったが順序から言えば一番下の弟だ。外(ほか)に幾人も目上の者がある。村じゅうは皆同姓で一家であった。そうはいうもののわたしどもは友達だ。喧嘩でもして年上の者を打つと一村の者は老人も若い者も、目上という言葉を想い出せない。彼等は百人中、九十九人は字を知らなかった。 和我一同玩的是许多小朋友,因为有了远客,他们也都从父母那里得了减少工作的许可,伴我来游戏。在小村里,一家的客,几乎也就是公共的。我们年纪都相仿,但论起行辈来,却至少是叔子,有几个还是太公,因为他们合村都同姓,是本家。然而我们是朋友,即使偶尔吵闹起来,打了太公,一村的老老小小,也决没有一个会想出“犯上”这两个字来,而他们也百分之九十九不识字。 わたしどもの日々の仕事は大概|蚯蚓(みみず)を掘って、それを針金につけ、河添いに掛けて蝦(えび)を釣るのだ。蝦は水の世界の馬鹿者で遠慮会釈もなしに二つの鋏で鈎(はり)の尖(さき)を捧げて口の中に入れる。だから半日もたたぬうちに大きな丼に一杯ほど取れる。その蝦はいつもわたしが食べることになるのだ。その次は皆と一緒に牛を飼うのだがこれは高等動物のせいかもしれない。黄牛(おうぎゅう)も水牛も空をつかってわたしを馬鹿にする。わたしは側へゆくことが出来ないで遠くの方で立っていると小さな友達はわたしが「秩秩斯干(チーチースーハン)」が読めることなど頓著(とんじゃく)なしに寄ってたかって囃(はや)し立てる。 我们每天的事情大概是掘蚯蚓,掘来穿在铜丝做的小钩上,伏在河沿上钓虾。虾是水世界里的呆子,决不惮用了自己的两个钳捧着钩尖送到嘴里去的,所以大半天便可以钓到一大碗。这虾照例是归我吃的。其次便是一同去放牛,但或者因为高等动物了的缘故罢,黄牛水牛欺生,敢于欺侮我,因此我也总不敢走近身,只好远远地跟着,站着。这时候,小朋友们便不再原谅我会读“秩秩斯干”,却全都嘲笑起来了。 わたしがそこにいて一番楽しみにしたのは、趙荘(ちょうそう)へ行って芝居を見ることだ。趙荘は比較的大きな村で平橋村から五里離れていた。 平橋村は村が小さいので、自分で芝居を打つことが出来ないから、毎年(まいねん)趙荘にいくらかお金を出して一緒に芝居を打つのである。その時分わたしは、彼等が何のために毎年(まいねん)芝居を催すか、ということについて一向|無頓著(むとんじゃく)であったが、今考えてみると、あれはたぶん春祭(はるまつり)で里神楽(さとかぐら)(社戯(ツエシー))であったのだ。 至于我在那里所第一盼望的,却在到赵庄去看戏。赵庄是离平桥村五里的较大的村庄;平桥村太小,自己演不起戏,每年总付给赵庄多少钱,算作合做的。当时我并不想到他们为什么年年要演戏。现在想,那或者是春赛,是社戏了。 |
鲁迅《社戏》(日汉对照)(三)
文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语