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鲁迅《社戏》(日汉对照)(二)

第二囘はいつのことだか忘れたが、とにかく湖北(こほく)水災|義捐(ぎえん)金を募集して譚叫天(たんきょうてん)がまだ生きている時分だ。その募集の方法は、二|元(えん)の切符を買って第一舞台で芝居見物をするので、そこに出る役者は皆名人で、小叫天(しょうきょうてん)もその中にいた。


わたしが切符を一枚買ったのは本来、人の勧めに依った責め塞げであったが、それでも誰か、叫天の芝居は見ておくものだ、といったことがあったらしく、前年のドンドンガンガンの災難も忘れてつい第一舞台へ行って見る気になった。まあ半分は、高い価(あたい)を出した大事の切符を使えば気が済むのでもあった。


わたしは叫天の出る幕が遅いと聞いていたので、第一舞台は新式の劇場だから座席を争うようなことはあるまいと、わざと九時まで時を過してやっとこさと出て行った。ところが、その日も相変らず人が一杯で、立っているのも六ツかしいくらい。わたしは仕方なしに後方の人込(ひとご)みに揉まれて舞台を見ると、ふけおやまが歌を唱(うた)っていた。その女形(おんながた)は口の辺に火のついた紙捻(こより)を二本刺し、側に一人の邏卒(らそつ)が立っていた。わたしは散々考えた末、これは目蓮(もくれん)の母親らしいな、と想った。あとで一人の和尚が出たから気がついたので、さはいいながら、この役者が誰であるかを知らなかった。そこでわたしの左側に押されて小さくなっていた肥えた紳士に訊いてみると、彼はさげすむような目付でわたしを一目見て、「雲甫(こううんほ)」と答えた。わたしはひどく極(きま)りが悪くなって顔がほてって来た。


同時に頭の中で、もう決して人に訊くもんじゃないと思った。そこで子役を見ても、女形(おやま)を見ても立役(たてやく)を見ても、どういう質(たち)の役者が何を唱っているのか知らずに、大勢が入り乱れたり、二三人が打合ったり、そんなことを見ている間に九時から十時になった。十時から十一時半になった。十一時半から十二時になった。――そうして叫天はとうとう出て来なかった。


第二回忘记了那一年,总之是募集湖北水灾捐而谭叫天还没有死。捐法是两元钱买一张戏票,可以到第一舞台去看戏,扮演的多是名角,其一就是小叫天。我买了一张票,本是对于劝募人聊以塞责的,然而似乎又有好事家乘机对我说了些叫天不可不看的大法要了。我于是忘了前几年的冬冬喤喤之灾,竟到第一舞台去了,但大约一半也因为重价购来的宝票,总得使用了才舒服。我打听得叫天出台是迟的,而第一舞台却是新式构造,用不着争座位,便放了心,延宕到九点钟才出去,谁料照例,人都满了,连立足也难,我只得挤在远处的人丛中看一个老旦在台上唱。那老旦嘴边插着两个点火的纸捻子,旁边有一个鬼卒,我费尽思量,才疑心他或者是目连的母亲,因为后来又出来了一个和尚。然而我又不知道那名角是谁,就去问挤小在我的左边的一位胖绅士。他很看不起似的斜瞥了我一眼,说道,“龚云甫!”我深愧浅陋而且粗硫,脸上一热,同时脑里也制出了决不再问的定章,于是看小旦唱,看花旦唱,看老生唱,看不知什么角色唱,看一大班人乱打,看两三个人互打,从九点多到十点,从十点到十一点,从十一点到十一点半,从十一点半到十二点,——然而叫天竟还没有来。


わたしは今まで何事に限らずこんなに我慢して待ったことはなかった。いわんやわたしの側にいた紳士はハーハー息をはずませて肥えた身体(からだ)を持てあましていた、舞台の上のどんちゃん、どんちゃんの囃(はやし)や、紅(あか)や緑のまぶしいキラめき。その時十二時だ。たちまちわたしはとてもこんな処にいられないと思った。同時にわたしは機械的に身を捻(ねじ)って力任せに外の方へと押出した。後ろは一杯の人で通る路(みち)もなかったが、大概その弾力性に富んだ肥えた紳士が、早くもわたしの抜け出したあとに、彼の右半身を突込んだので、わたしは自然に押され押されて木戸口に出てしまった。


街は観客の車以外にはほとんど一人も通行人がなかった。それでも木戸口には十何人か頭を昂(あ)げて芝居の番附(ばんづけ)を見ていた。外に一かたまりの人が、何にも見ずに立っていた。大概芝居のハネたあとの女を見に行くことを考えていた。しかし叫天はそこにもやッぱりいなかった……


夜の空気は非常に爽(さわや)かで、全く「人の心脾(しんひ)に沁む」という言葉通りで、わたしが北京(ペキン)に来てからこの様ないい空気に遇ったのは、この芝居帰りの外(ほか)にはなかったようにも覚えた。


我向来没有这样忍耐的等候过什么事物,而况这身边的胖绅士的吁吁的喘气,这台上的冬冬喤喤的敲打,红红绿绿的晃荡,加之以十二点,忽而使我省悟到在这里不适于生存了。我同时便机械的拧转身子,用力往外只一挤,觉得背后便以满满的,大约那弹性的胖绅士早在我的空处胖开了他的右半身了。我后无回路,自然挤而又挤,终于出了大门。街上除了专等看客的车辆之外,几乎没有什么行人了,大门口却还有十几个人昂着头看戏目,别有一堆人站着并不看什么,我想:他们大概是看散戏之后出来的女人们的,而叫天却还没有来……然而夜气很清爽,真所谓“沁人心脾”,我在北京遇着这样的好空气,仿佛这是第一遭了。


この一夜(ひとよ)はとりもなおさず、わたしが支那芝居に告別をした一夜で、もう一度そんなことに遇おうとも思わず、たまたま芝居小屋の前を過ぎても、わたしどもとはまるきり関係がなく、精神がすでに一つは天の南にあり、一つは地の北にあった。


这一夜,就是我对于中国戏告了别的一夜,此后再没有想到他,即使偶而经过戏园,我们也漠不相关,精神上早已一在天之南一在地之北了。


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