楚の屈原は古代の中国が生んだ情热的な诗人で、彼の诗は、今日なお『楚辞」にその悲愤の调べを伝えているが、しかし彼は诗人であるよりも、国を爱し正义を爱する人间としてまず生きたのであった。
戦国の末近いこの时代は、秦が势威を振るっていて、これに対抗できるのは楚と斉の二国ぐらいなものだったから、秦は、楚と斉の结びつきを絶えず気にしていた。屈原は亲斉派の领袖として楚?斉同盟を强化するよう献言し、楚の懐王もはじめはこの立场をとっていたのである。ところが懐王の宠姫の郑袖や、佞臣?キン尚などは、かねてから三闾大夫(その王族の昭氏?屈氏?景氏の族长)の屈原を疎ましく思っていた。
そこへつけ込んだのが、时の秦の相?张仪である。彼は郑袖らを买収して亲秦派とし、その结果キン尚达がおきまりの谗言をして、屈原を国政から远ざけてしまったのだ。屈原が三十一歳の时であった。悲剧はここに起こった。
この时懐王は、斉と絶交すれば、その代偿として秦の六百里の土地を与えると张仪に言われ、その通り斉と絶交したのだが、これが张仪の真っ赤な嘘とわかり、大いに怒った懐王は、ただちに秦を攻撃したのである。ところが、かえって秦に破られて土地を夺われ、そのため後悔した懐王は、再び屈原を用いて斉への亲善使节とした。
その後十余年の月日がたつ。周の赧王十六年のことであった。秦は両国相互の为と称して、秦の土地へ懐王を招いたが、屈原は秦のやり方は信用が出来ないと言って、これをとどめようとした。しかし懐王は、王子の子兰の强っての勧めで出かけて行き、果たして秦の虏となって、その翌年秦に客死してしまった。
楚では太子が襄王となり、弟の子兰が令尹(宰相)となった。屈原は懐王を死に至らしめた子兰の责任を问うたが、それは逆に谗言される结果となって、今度こそ本当に追放された。彼にとって悲剧は决定的となった。时に四十六歳であった。
かくて十年余の间、祖国爱に燃える屈原は、国外へ亡命することもなく洞庭湖のあたりをさまよい、ついに忧愤のあまり汨罗(洞庭湖の南、湘水に入る川)で入水して果てるまで、忧愁に満ちた放浪を続けたのである。『楚辞」にある彼の作品の大部分は、この放浪生活の所産であると言ってよい。
彼は常に危机にある楚を忧え、祖国を误らす佞臣を憎み、彼の坚持した孤高の心情を热情的に歌った。あるいは彼の诗の背後には、郭沫若氏の描く史剧「屈原」のように、「苦しみ慨く人民」の姿があったのかも知れない。その高く节操を持した屈原の片鳞は、次の诗にも见える。
热羮に惩りて韲を吹く、何ぞ此の志を変ぜらんや。
阶を釈てて天に登らんと欲す、なおさきの态あるなり。
(あつものに惩りてあえものを吹くは、世の人のよわきさがなり。
われひとり天にも登る心もて、守りこしみさおぞ変えじ。)
これは、『楚辞」の「九章」中の「惜诵」と题する诗の一节である。
「惜诵」は、屈原が彼以上に「君」を思い忠诚を誓う士のいないことを歌い、にもかかわらず衆人に疎外されたことを愤り、更にどうしょうもない孤独を慨きながらも、その节操だけは変えないという、慷慨の心を吐露した诗である。なお、彼の代表作には「离騒」や「天问」がある。
「羮に惩りて脍を吹く」という语は、この「热羮に惩りて韲を吹く」
から出たもので、羮は热い汁、脍は细かく切った生肉、韲は酢や醤油で和える细かに切った野菜、脍も韲も冷菜だ。従って「一度失败したのに惩りて度の过ぎた用心をすること」を意味する。