时はまさに戦国时代である。一芸一能に秀でた者は、全て実力で世に立とうと必死の努力を続けていた。中でも従横家と呼ばれる、诸侯の间を游説して歩く弁舌の地位は、空前絶後と言っていいほど高かった。
魏の国の贫乏人の子に生まれた范雎もまた、従横家を志す者の一人だった。だが几ら実力主义の世の中が来たからとはいえ、氏も名もない男が出世の糸口を见つけだすのは容易なことではない。まず故郷の中大夫の须贾に仕官したが、斉にその供をして使者に立った时に、家来の范雎の方が受けがよかったので、すっかり须贾の机嫌を损じてしまった。それで帰国後、须贾が魏の宰相魏斉に、あることないことを悪し様に告口したから、さァたまらない。
「お前は斉に通じていたのか?」
と、たちまち下役人どもに命じて散々に打ちすえさせたかと思うと、今度は箦巻きにして便所に放り出すという仕打ちだった。范雎はすきを见て番人に渡りをつけ、渐く同情者の郑安平のもとに潜伏して名を张禄と改めた。いつか折りがあれば秦に入ろうと、それとなく心がけていると、秦の昭王の使いで王稽という者が来た。郑安平はさっそくその宿舎を访れた。
「あなたに推荐いたしたい立派な人物がおります。
ただ、その人には仇があって、昼间お连れすることが出来ません。」
夜阴访れた张禄を见、彼は、苦心惨憺してて郑と共に本国へ连れ帰って、こう言上した。
「魏の张禄先生は天下の外交官です。
秦の政治を批评して『秦王の国は累卵(卵を累ねること)より危うし」といい、『しかしこの私をお用いになれば、御国は安泰でしょう。
不幸にして手纸を差し上げようにも、今まで机会がありませんでした。」と言っております。
これが臣が先生をお连れした理由です。」
秦王はこの不逊な客を厚遇しようとはしなかった。しかしさすがに戦国の王者らしく、别に処罚するようなこともせずに、一応下客の列に加えておいたのである。范雎が真の才能を発挥しだしたのは、それから间もなくのことだった。(『史记」范雎伝)
また次のような话もある。春秋の顷、曹という小国が晋と楚の间に挟まれてどうにか独立を保っていた。晋に内纷があり、公子重耳は亡命の途中、曹を过ぎた。その时の曹公の态度が甚だよくない。かねて重耳の肋骨はつながっていて、あたかも一枚の骨のようだとの噂を闻いていた曹公は、公子を裸にしてわざわざこれを観た。ただ曹の大臣の厘负羁だけは密かに夜中人をやって黄金を赠った。
「私の见ます所では、晋の公子は万乗の君たるにふさわしい、立派なお顔をしていらっしゃいます。
再び国に迎え容れられるようなことがありますと、必ず曹の无礼を诛されるに相违ありません。
今のうちに公子に志を通じておかれた方が将来のお为です。」
と言う妻の言叶をもっともだと思ったからである。
それから十年、今は秦に身を寄せている公子は、その援助で晋に入り晋君となった。これが春秋五覇の一人、晋の文公である。更に三年、文公ははたして兵を挙げて曹に攻め込んできた。厘负羁が攻撃を免れたことは言うまでもない。
だからこそ礼は大切なのだ。曹は小国で晋?楚の间に挟まれている。
その国の危うきことは、累卵のごときではないか。そのくせ无礼な态度をとったのが、そもそも间违いだったのである。
と、これは韩非子の「十过」に见える挿话である。
なお、これを郑という小国のことだとする説もある。