春や夏のよく晴れた日、舗装された道路や草原などに、実際にはない水面のようなものが見えることがる。
そしてその場所に近づこうとすると、水面もまた先の方へ移ってしまい、まるで逃げられているような感覚になる。
このような現象を逃水(にげみず)と言う。
強い日差しで路面?地面が熱せられると、地表付近の空気が温まって膨張し、密度が薄くなる。
すると、密度の薄い空気の層の上に、密度の濃い空気の層が乗るような形になり、二つの層の境界面で光が反射したり、曲がったりし(屈折したりし)、まるで水面が光を弾いているかのように見る者の目に映る。
これが逃水の正体。
古くから逃水は、平坦な土地の広がる武蔵野の名物とされ、古歌にも詠まれてきた。
あづま路にありといふなる逃げ水のにげのがれても世を過ぐすかな (源俊頼)
次の俳句は、このことを踏まえたもの。
逃水や武蔵の国といま言はず (黒坂紫陽子)逃水は遠くまで見渡せる長い道の上によく現れるので、空間的な広がりを表現するのに適した季語です。
逃げ水や麦はみどりの畝つめて (岡本まち子)
逃水やゆきゆきてなほ石狩野 (小川杜子)
逃水を東京へ押しレノン聴く (凡茶)
また、足腰にこたえるような道のりの長さを読み手に伝えることもできます。
逃水や人を恃みて旅つづく (角川源義)
恃みて=たのみて。
逃水や驢馬にて運ぶ壺の水 (澤田緑生)
驢馬=ろば。
逃水の果て敦煌のありにけり (宇咲冬男)
敦煌=とんこう。シルクロードの要衝。
逃水は、追っても追っても決して辿り着くことができないため、到達できないものや、手に入れられないものの象徴として詠まれることも多いようです。
逃げ水を追ふ旅に似てわが一生 (能村登四郎)
逃水は亡き娘の現るる如くなり (角川照子)