「日本語の危機」等と言われて久しいが、その中にはいろいろな現象が見られる。
“日语的危机”也说得久了,这当中能看到各种现象。
まず、「敬語が正しく使えない」。これは本当に耳の痛い指摘だと思う。われわれ日本語教師にしても、実際には正しく使えなくなっているように思う。場面によって変わってくる敬語の使い方。それと同時に言葉はどんどん変化してくるため、どこまでを許容範囲にするかという問題も出てくる。外国人の日本語学習者が「正しい日本語の敬語を教えてほしい」と言う。教科書によっても違うし、人に聞いても違うし、戸惑う外国人が多いのはうなづける。言語学のある専門家は「家庭内における言葉の弱体化」を指摘している。別に敬語に限ったことではないが、家庭内の言葉は敬語の原点でもあると思う。親子兄弟が周囲の人と話をするときに敬語を使っていれば、どの場面、どういう対象に使う言葉かなど自然に身についてくると思われる。また前述の専門家は「近代化・都市化した社会は“言葉を上手に使う”という技術を磨き育てる機会と場そのものをどんどん消滅させている。」と述べている。確かにわれわれの周囲は忙しく非人間化された社会が広がっているように思われる。どんどん変化する社会において、せめて、最低限の尊敬、謙譲の言葉を使いたいし、敬語を上手に使える心を持つと言うことは美しい人間関係を築く根本であるようにも思う。
首先是“不能正确使用敬语”。这一指摘实在让人听着难受,从我们日语老师的角度来看也认为人们确实是越来越不能正确使用。敬语的用法因场面而异,与此同时由于语言本身也在不断变化,就会出现哪种程度是被允许的范畴这一问题。学习日语的外国人会说: “希望能教我们正确的日语敬语”。可是教科书众说纷纭,问人也不一而足,无疑会让众多外国人感到疑惑。某语言学专家指出“家庭内的语言脆弱化”,当然这并非仅限敬语,由于家庭内的语言也是敬语的原点。亲子兄弟和旁人说话时如果使用敬语,就能自然掌握该表达应在什么场合对什么对象使用。此外,前面提到的专家还指出“现代化、城市化的社会正在将磨练并培养‘用好语言’这一技术的机会和场所本身逐一消灭。”我们周围繁忙而非人化的社会确实在扩展。置身逐渐变化的社会中,至少要会用最低限度的尊敬和谦让语言,我还认为怀有能用好敬语的心是构筑良好的人际关系的基础。
次に「漢字が書けない・間違いが多い」など、ワープロの発達と同時に起こってきたことと思われる。が、原因はそれだけではないと思われる。先日も文部科学省所管の財団法人「日本漢字能力検定協会」が実施した漢字能力調査の結果が新聞に出ていたが、その実態は「嘆かわしい」と言うだけではすまないと思う。恥ずかしながら、書けないということは私自身にも当てはまる。読めても書けないのである。自分の努力ももちろん必要であるのは論を待たない。が、活字文化の担い手であるマスコミにも責任の一端があるように思う。例えば野球記事の中でタイガースが頑張っているさまを「虎軍奮闘」と書いたりしている。スポーツ紙においては多くの例があるが、これは間違った字を子供たちに植えつけることになりかねない。確かに上手な当て字で、なるほどと感心させられることもあるが、これは違うのだということを意識していないと、いつの間にか目から入って覚えてしまうことになる。
其次是“汉字不会写、常写错”等随着机器输入的发达而产生的情况。不过,原因应该不仅如此。前些日子文部科学省的财团法人“日本汉字能力鉴定协会”实施的汉字能力调查结果上了报,其实际情况不能仅用“可悲可叹”来形容。羞耻的说一句,不会写这点也能套到我自己身上。看了知道,就是不会写。这需要自己的努力自不待言。不过作为印刷文化的推手,媒体也有一定责任。比如棒球报道中会把阪神老虎队拼搏的姿态写成“虎(孤)军奋斗”。在体育报上有很多类似的例子,但是这有可能把错字灌输给孩子们。当然这确实是妙用同音字,让人看后会心理解,可如果不能意识到这是错字,不知哪天映入眼帘后就给记住错的了。
そして現在選挙運動が始まり候補者の名をひらがなで書くことが多くなっていることを見ると、識字率の高い日本でなぜ今ひらがなで書かなければならないのであろうかと疑問に感じる。平成の大合併で誕生した市の名前も然り。
还有现在开始的选举活动中看到候选人名字用片假名来写的越来越多,这就让我搞不懂了,为什么识字率高的日本事到如今非得用平假名写呢?在平成年代的大合并中诞生的城市名字也类似。
ある新聞記者は「漢字狩りは語彙の貧困を招き、語彙の貧困は思考力の低下を招く。今に子供たちは古典どころか、祖父母の文章さえ読めない時代になってしまうかも」と危惧しているが、私も同感である。
某新闻记者担心“去汉字化会招致词汇的匮乏,词汇的匮乏又会引起思考能力降低。如今的孩子别说让他们读古文,就连祖父母的文章都读不懂了”,我也是同感。
言葉は変化するもの、時代とともに変化していずれその変化したものが大勢を占めるようになるのであろう。どこまでが危機で、どこまでが進歩であるか、流動的な言葉を「正しい」「正しくない」と決め付けることはできないのであろうか、歴史を待つのみであろうか。ここまで書いて、私はいつの間にかある点に留まり進歩できない人間になったのか、と不安も感じ始めている。
语言会变化,随着时代变迁,总有一天这一变化会占据主流。哪种程度是危机,哪种程度又是进步?变迁的语言是否不能单纯以“正”“误”来下定论,还是该等待历史的评判?写到这里,我也开始担心,自己是否在不知不觉中停留在某一点,变成无法进步的人呢?