思えば、標語の技には進歩がない。「新体制で国を強く明るく」。どこかで見たような幟が大阪に現れたのは1941(昭和16)年初めだ。夏には優秀児を選び出して遺伝調査が始まる
细细想来,有关标语口号的技巧并未见何种进步,什么“在新体制下建设一个强大光明的国家”,1941(昭和16)年初,在大阪出现了这条似曾谋面的旗帜。那年夏天评选出了优生儿,并开始进行遗传调查。
「云(い)うな不平。漏らすな秘密」。行楽先で軍港や駅をうっかり撮影し、捕まる人が続出した。「国が第一、私は第二」「聖戦へ、民一億の体当り」と標語は熱くなり、71年前のきょう、日本軍は真珠湾を奇襲する。この痛恨の日を、各党のスローガンが飛び交う中で迎えた
“不得述说不满!不得泄露秘密!”,因为在观光景点不小心拍摄下了军港及车站的照片而被捕入狱者持续不断。“国家第一,个人第二”“国民一亿奔赴圣战!”等标语口号甚嚣尘上。71年前的今天,日本军偷袭了珍珠港。就在各党派的标语口号漫天飞舞的氛围中,我们将迎来这令人痛恨的日子。
内外の流血を結晶させた平和憲法が、選挙の争点にされている。政権に戻る勢いの自民党は9条を変え、自衛隊を国防軍にするという。呼び替えだけでは済むまい。海外で米国と共に戦う集団的自衛権までが、景気や原発と並べて語られる
这部凝聚着国内外牺牲者热血的和平宪法成了这次选举的争论焦点。重返政权势头正旺的自民党听说准备更改其中的第9条,并将自卫队升格为国防军。而且还不仅仅止步于呼吁的程度。甚至连前往海外与美国共同作战的集团自卫权也成了与恢复景气和废除核电并驾齐驱的诉求目标。
戦争観は世代で違うが、国民の8割は戦後生まれ。悲惨を肌で知る人は少ない。核保有の利を唱える石原慎太郎氏にしても、終戦時は12歳だった。しかも、国防を声高に論じているのは、何かあっても銃を持たされる年齢層ではない。政治家も、我ら言論人も
尽管战争观因年龄层的不同而有所差异,可是,现在8成国民出生于战后,对于战时的悲惨情景有切肤之痛者为数甚少。就连鼓吹拥有核武器之好处的石原慎太郎先生停战那年也只有12岁。而且,他们之所以大谈特谈国防问题,是因为即便发生了什么情况,也并不处于扛枪打仗的年龄段。还有那些政治家,以及我们舆论工作者也属此列。
有名な「欲しがりません勝つまでは」は開戦の翌年、「国民決意の標語募集」の入選作である。主催は大政翼賛会と、朝日、毎日、読売の各紙だった。政治とメディアが単色になる危うさを思い起こしたい。右へ倣えを、他国も案じている
赫赫有名的“不获全胜,什么都不要!”是开战后第二年举办的“征集反映国民决心标语”活动的入选作品。主办单位是大政翼赞会和朝日、每日、读卖各大报社。希望大家回想一下当政治和媒体都显示清一色舆论时的危险性,即便是其他国家也在担心我们向右转。
〈この子らに戦(いくさ)はさせじ七五三〉水野李村(りそん)。国を守る決意もいいけれど、戦没者の悔しさを思い、孫子の顔を浮かべての一票も悪くない。
〈大和子孙不再战,人人有责重如山,世代和平宪法保,一年一度七五三〉水野李村作。尽管保卫国家的决心并无有错,可是想想战争死难者的悔恨,看看孙子的笑脸再投出的这一票也错不了。