無心の境地ということだろうか。世界のホームラン王はかつてこう語っている。「ぼくは、自分の目の前に来る白い球を、自分の打ち方で、いかに正しく打つかということしか考えていない」(川村二郎『王貞治のホームラン人生』)
或许是达到了一种无我境界吧,世界本垒打之王曾经这么说过,“我想的只是如何以自己的击打方式正确地击打向我眼前飞来的球。”(摘引自川村二郎著《王贞治的本垒打人生》)
その王さんの、聖域とも言われた大記録を、ヤクルトのバレンティン選手が超えた。実に49年ぶり。あと1本の重圧を跳ね返したのも無心だったろうか。「リラックスをして走者をかえすことを考えた」という談話が、達成の機微を伝えている
这一次,东京养乐多燕子队(Tokyo Yakult Swallows)球员巴伦泰(Wladimir Balentien)超越了就是这位王先生创造的被称为禁区的伟大记录。为了打破这项纪录花费了整整49年。不知道巴伦泰在顶着还差最后1棒的重大压力时是否也处于无心无我之境?“以轻松的心态考虑着击退已上垒的跑垒者”,此番谈话向我们表述了成功的奥秘。
開幕21連勝を成し遂げた楽天の田中投手も、数字へのこだわりを否定する。「記録のためにやっているんじゃない」。それにしても歴史を塗り替える偉業である。力んだりしないのかと気を揉むが、彼らの胆力は凡百の想像を超えるのだろう
开赛以来创21连胜记录的乐天队投球手田中也否定对于数字的关注,他说,“打球并不是为了记录”可即便如此,这也称得上是改写历史的伟业。难道他就不想着显示自己的实力吗?尽管在这一问题上会有所纠结,但你不得不承认他们的气度远远超过了我等凡夫俗子的种种想像。
枝葉を払うことの大切さは、分野によらず道を究めた第一人者がこもごも指摘している。将棋の羽生(はぶ)三冠は言う。「大切なのはそぎ落としていく作業です」。余分なことは忘れた方がいい。大事なことも忘れていい。思い出せればいい。その方が独創的な発想が出てくる、と
无论哪个领域,处于此道顶级地位的第一人一再指出了摈弃枝节问题的重要性。将棋三冠王羽生先生就说过,“重要的是去除这一项”。多余的部分要忘掉,重要的事也要忘掉,能想的起来就行了,只有在这种情况下才会出现具有独创性的想法。
中島敦の短編「名人伝」を思い出す。ある男が弓の至芸を身につけた時、弓も矢も不要となった。道具はなくても、その道の「神」が彼に宿ったからだ。最後は弓という名も、その使い道も忘れ果てていた……
这让我想起了中岛敦的短篇小说“名人传”。当主人公弓箭技艺达到了炉火纯青的程度时,弓和箭都不再需要了。因为,即使没有器具,此道之“神”已经依附其身了。最后,弓及其使用方法也都彻底地忘掉了······
むろん寓話である。ボールとバットがなければ野球はできない。ただ、奥義というものの底知れなさを描いて、一分の隙もない。
当然这只是寓言,没有了球和击球棒是不能打棒球的。不过在描述意义的高深莫测上却没有一丝一毫的松懈。