二十四節気にも「格」のようなものがある。主役級は立春に立夏、立秋、立冬、さらには夏至、冬至といったところか。準主役級が大暑に大寒、啓蟄は大物の助演俳優だろう。きょう7日は白露(はくろ)だが、これは風情のある名脇役を思わせる。野の草に宿る露に秋を感じる頃、である
二十四节气中也有类似“规格”那样的等级存在。主角级的有立春、立夏、立秋、立冬,或许还可再加上夏至、冬至这样的?准主角级的大暑、大寒、惊蛰可能相当于大腕的配角演员吧。今天7日为白露,这让我们想到了风情万种的某个名配角。真到了露宿野草秋意阵阵的时候了。
こよみの上では早くも仲秋だが、実際には夏が逝く季節。東京から近い鎌倉の海もこの週末でシーズンを終える。〈江ノ島のやや遠のける九月かな〉。俳人中原道夫さんの一句は、にぎわいの去った浜辺を想起させる。夏の終わりの心象風景である
历书上早已是仲秋时分,可实际上还是盛夏渐退的季节。距离东京不远的镰仓海滨游乐场的季节性营业也将于周末结束。〈人声鼎沸江之岛,渐行渐远九月初〉,俳句诗人中原道夫先生的这首俳句让我们想起了热闹过后海滨的冷清,是一道夏日终结后的心像景色。
鎌倉に近い葉山に暮らした詩人、堀口大学の一節も胸に浮かぶ。つまみ食いの引用をお許しいただくとして、〈美しい瞳でしたよ 八月の海のまぶしさ……ひと夏の海水着の流行(はやり) 夕空の花火のあかり……風に似て行ってしまった〉
生活在镰仓附近的诗人堀口大学的一段诗文也涌上了心头,姑且请允许我断章取义地引用一段,〈就像是美妙的眼眸,八月大海的浪花······还有整夏流行的泳装,照亮夜空的火花······恰如清风徐徐离我而去。〉
灼ける太陽の下、非日常めいた休暇や避暑はさまざまなできごとを生み、特別な記憶となって胸底に沈んでいく。沈み切るまでのさざ波が、いわば晩夏の感傷なのだろう
在炽热的太阳底下,非同寻常的休假及避暑消夏造就的形形色色的故事,将成为一种特别的记忆沉积在我们心底。在此沉积过程中泛起的涟漪,恐怕正是暮夏的伤感吧。
白露に戻れば、この日は二百十日と二百二十日の間にある。風雨の厄日をはさんで関東など各地で竜巻が暴れ、豪雨は道路を川にした。大気という海の底に暮らす人間、ひとたび天が牙をむけば、たちまち弱い生き物に返る
话题再返回到白露,这一天位于二百十日和二百二十日之间。处于这风雨厄日的关东等各地区龙卷风肆虐,暴雨之下道路成河。生活在大气这一海洋底部的人类,只要老天爷一旦呲牙咧嘴地发了怒,立刻就会重返弱小生物的地位变得规规矩矩。
きのう最寄り駅までの道すがら、紫の花をつけ始めた萩が、露ならぬ雨滴をのせて光っていた。花の盛りの頃に降る雨を「萩散らし」などと呼ぶ。荒れず暴れずに、降ってほしい。
昨天,在走向最近城铁站的到路旁,看到了开始绽放紫色花朵的胡枝子闪着光亮,那是因为雨滴而并非露珠。在此花盛开之际降下的雨水通常称之为“打花雨”,真心希望不要下得过急,也不要下得太大。